拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『ミメーシス』第3回

11月1日。前日までの「博論祭り」を乗り切った次の日の午後、院の授業は『ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫)』。第3章、「様式混淆」について。
アウエルバッハ先生は、アウグスティヌスさんの『告白』の引用(若い友人がワルい快楽に墜ちてゆく)に、古典古代のテクストによく見られる精緻な従属構文(例えばcum、postcumが使用される)ではなく、論理をぶっちぎった並列構文(et [and]の連続)を見いだし、そこに「熱い」人間性を読み取る。
そして、先生は、この堕落の場面は、単に堕落した若きアピュレウスさんの堕落ではなくて、キリスト教的に(つまり、教父たちの改心の予型として)読み取られたであろう、というのも、並列構文の連続のそれは、アウグスティヌスさんの同時代人、ヒエロニムスさんがラテン語に訳した聖書のそれによく似ているからだ、と説く。
16年前に読んだときにはすっ飛ばし、8年前に読んだときには一応目は通した細部にひたすら溜息をつきつつ、読む、読む、読む。マジメに読むのはこれで3回目だが、ただただ感心しつつ読む。読む。読む。
たぶん、私の文章ではアウエルバッハ先生のテクストを読む快楽がさっぱり伝わらないでしょうが、お願いですから、若い人は無理にでも読んでください。