拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

「プロフイル 研究が唯一の趣味 清水春雄講師」(『小樽商大緑丘新聞』271号より)

昭和30年(1955年)9月25日の記事です。清水の波瀾万丈の人生がよくわかると同時に、学生記者の「ノリ」も時代めいてなかなかおもしろい。まあ「ホイット・マン」はご愛敬。

 軒下にまつかな酸醤が六つ七つさがつているのが見える。すがすがしい感じのする部屋に案内され、木目の目立つ大きなテーブルをはさんで向かい合う。先生は、とみる間にいそゝゝと立ち上がつて採点中の答案を引つ込めわれわれを歓待してくれる。
 授業の時のいかつい表情は消えて思いのほか話し上手。以後二時間独りで話しまくる。
 お生まれは北海道の東端根室。生年は明治三十六年というから、おん年何才になるかしら(頭脳明セキなる諸君に任せよう)根室といつてもまだ汽車の通つてなかつた時代のことで、釧路まで船で出て来たんだそうだ。そこの商業学校を出てから、当時の小樽高商に入つた。その頃の高商の様子など、こゝしあばらく出したことがないというアルバムをめくりながら話し出す。
 まことに勤勉な学生だったらしく、在学中は常に首席を争い、しかも大正十二年の卒業時には優等生として新聞に写真入りで報道されている。がしかし非常に謙遜されて「なあに、遊びすぎたか、そうでないかの違いですよ」という。(今の学生=勉強せず+遊ばず=沈滞テナワケナカ?)とにかくその当時はすることが徹底していたそうでその頃の事を懐かしそうに目を細めて話される(この人が試験で学生を苦しめるとは実に意外!)先生の同期生には玉井助教授と原教務課長がいるが、クラスが違つてあまり知らなかつた由。
 その後中学の先生を二十年ほどもやつたが、それに飽きたらず広島の文理大に入つた。とにかく非常な晩学で、文理大にいた時は最老学生であつたという。そこでかの原爆の洗礼を受け、あぶなく九死に一生を得て、それから一ヶ月故郷の実家に帰つて治療し、やつと心身の健康をとりもどしたという。原爆のものすごさは想像以上で、その当座はヒューマニテイもなにも人間らしい感情はマヒし、肉親の死ガイを逆さにかついで歩く人達を見ても何の感じもしなかつたと、極めてたんゝゝとした口調で話される。しかし生死のさ中でそれをはつきりと意識しているのをみても、それが精神的に大きな影を残しているようだ。こんなためか「戦争はいやだね」という言葉にも実感がこもる。現在アメリカ文学を研究しているが、特にホイット・マン(ママ)とマーク・トウエインには力を入れておられる。「アメリカ人の物の考え方を、文学作品を通して理解しようと思つた」んだそうで、ホイット・マン(ママ)に関してとうとうの弁はつきない。
 酒は付き合い程度、タバコも吸はず、マージヤン、将棋、碁もゝちろんやらず、目下のところ研究が唯一の趣味というところ。「短大の主事の仕事も忙しくてね。今年の就職も頭痛ですよ」と笑われる。とにかく話すにも笑うにも実におしとやか。われわれはこれに関心しておいとました次第。家族は奥さんと可愛い女の子が二人。(短大主事)

なお、文中に出てくる「玉井助教授」とは玉井武のことで、私はこの方の論文もほぼ揃えることができた。1950年の時点で「北海道英学史」などということをやろうとしていた方である。