拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

大原三八雄の「戦闘の生涯」(戦前)

大原林子『聖手に委ねて』(大原三八雄編、非売品、1943年)がILLで届いた…が紙がボロボロで、ごく一部だけのみコピーした。ごく一部とは兄・大原三八雄による、妹・林子の「小伝」である。林子(1909 [M42]~1939 [S14])の「小伝」であるが、「長兄」として出てくるのが三八雄であり、この兄妹(たち)が戦前どう暮らしていたのかがわかる。簡単にはウラを取れないので大原三八雄の文章をとりあえず信ずるほかないが、相当に苦労していたようだ。
父・秀三郎は広島市の「代々の材木商」(1頁)だったが、林子「小学校入学前後、父相場によって失敗、忽ちのうちに赤貧洗ふが如き生活に陥る」(同上)。林子「十三歳の時、産後病を得た母を、長き病床に失ひ、之より兄等と共に戦闘の生涯始まる」(同上)とあるから、これは1922年頃のことになる。「兄は二人。長兄(注:これが三八雄のようだ)当時自立して中学校に通ひ、次兄は満州の叔母の家に養子となつて居たが病を得て帰省、保養中であつた。妹は小学校一年生。/此の前後より父は別居し、兄妹四人にて路傍の石の如く生計を樹つ」(同上)…と、大原兄妹の苦闘が綴られていく。長兄の三八雄は「給費生」として「広島高師第二臨時教員養成所英語科に入学」(1927)、「家庭教師を勤め、兄妹四人の経済的危機を切り抜ける」(2頁)とあるが、病身だった次兄は昭和5年(1930)春に逝去。昭和7年(1932)には「広島文理大に入るや間もなく過労の為大病に罹る」(3頁)とあり、その秋に林子の下の妹・美砂子が逝去とある(3頁)…。結局、林子も病のために昭和14年(1939)に亡くなった。
引用紹介はこのくらいにしておくが、この「小伝」を読めば、こうした貧困と病の経験が、林子や三八雄をキリスト教への信仰に導いたことがわかる。そして、こういう背景と、1945年8月の入市被爆経験があってこそ、大原三八雄は戦前も戦後もクリスティナ・ロセッティの「信仰詩」を学びつつ訳したりしていたのであって、これは「ああそうだったのか」と納得したのであった。