拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

Facebookに投稿したものをこちらに転載しておきます。推敲なしの覚書。

職場のシステムでサバティカルは順番に回って来るわけではないのだけれど、正直取得したい。来年(以降)応募〜というのがもうサバティカルとは違うと思うのだけれど〜資格が出て来るのだけれど、一年間時間が取れれば懸案の『核時代の英米文学研究者(仮)ーー広島編』をある程度形にしたい。
今年の授業はその下準備で、毎回学生向けに準備はマジ大変。7月末まで自転車操業
今の状況をメモ書きとして書いておく。
(1)福山市出身の二人、福原麟太郎(事実上書かない)と井伏鱒二(「かきつばた」、『黒い雨』他でがっちり書いた)の原爆被害に対する対照的態度を語って、授業は終了。

(2)福原麟太郎野崎孝のハーシー『ヒロシマ』教科書採択問題。前に英語で書いた論文を元にして講義を行なったが、肝心の中央大学野崎孝)と広島大学(でも本当にHiroshimaを英語の授業で使ったのかねえ?というわけで、当時の学生新聞等々の反応を調べる必要がある。

(3)清水春雄。1951年論文では、皇統3000年の日本が300年のアメリカに負けたのは前者がそもそも虚構だったわけだが後者が買ったのはわずか300年で雑多な人々を統合したFrontier Spiritがあったからで云々、そういうことを文学研究を等して明らかにするのは「私」の「立場」と明言していた。もしこの路線で論文を書いていたら、例えばホイットマンが歌い上げたDemocracyや諸民族のLoveとかをようやく褒め称えていたアメリカが、広島市長崎市に原爆を投下したことについて、被爆者清水はどう評価するのか、なにがしか書いていたかもしれない。ところが1952論文では、日本の皇国史観から戦後民主主義への以降をふまえた上で、アメリカのFrontier Spiritの様々な側面こそが原爆投下と関係があるのかないのかという考察は一切論文上から消え失せる。フツーの研究論文である。
もっとも被爆体験は少なくとも紙面では2回語っていて、1955年インタビューは広島での原水禁の大会に合わせた学生新聞の紙面に掲載された清水の被爆体験のカミングアウトだが、1957年のホイットマン単著関連記事は「私」というこ言葉と「私」の「立場」を一切省いた、清水の単著『ホイットマンの心象研究』(篠崎書林、1957年)の良くも悪くも真面目な紹介文である。また、立正大学に提出された博士論文とほぼ同じであろう(未確認)『ライラックの歌ーーホイットマンの教説』(篠崎書林、1984年)にも(大原1951的な)「私の立場」やホイットマン語るところのDemocracyや人種の平等を(一応)評価していたアメリカの原爆投下との関係についての、そして「私」の「立場」のわずかばかりの考察もない。
とはいえ、1986年の退官記念講演録では、自分のホイットマン研究は配線体験と被爆体験がある、大和魂ではダメだったからFrontier Spiritの研究を(特にホイットマンに絞って)やってきたのだと、長年の研究を総括していた。
まとめると、1951論文では皇国史観(あるいはFrontier Spirit)を念頭に置いて、その違いが文学研究からさぐりだすというのが「私」の「立場」と意気込んでいたのだが、その意気込みや「私」を論文の中に直接であれ、「あとがき」等々で書き込むのはこれが最初で最後、1952年のあとは、これは私は全て確認しなければならないが、現時点では、普通の先行研究を踏まえたホイットマン論文を書いたのが清水であった。とはいえ、研究の背後には戦争・被爆体験があったことは活字化していた。
研究論文に戦中から戦後への社会の変化への意識と、それを踏まえての文学研究者としての「私」の「私の立場」を盛り込んだのは1951論文で終わり。ただ、数多ある清水のホイットマン論文も、1955年インタビュー、特に1986年退官記念講演録では自分の研究と敗戦・被爆体験との関連を明言していて、若い学生たちに語っていた。
要するに論文からは敗戦・被爆体験という「私」の文学研究の「立場」を決定する出来事を、1952年以降はさっぱりと割愛したのである。これは何故なのか。彼が被爆者として色々思うことがあったのか。「研究」というもののあるべき姿、論文を書いた際の状況や、「私」の「立場」を書き込むことの是非を彼が色々考えたのか。このあたりのことを、ポスト3/11以降の英米文学研究のあり方を考察する上でののヒントとしてじっくり考えたい…という公約を学生の前でしてきた。
ついてに、学生には、例えば自分の経験した重大事件が卒論テーマ決定に影響を及ぼした場合、それを論文中で明言するかどうかと聞いてみた。書きたくないという人が半分、「あとがき」なら書くという人も半分ではあった。

(3)大原三八雄については来週(7月4日から)から講義。これは彼のクリスティーナ・ロセッティ宗教詩の研究と、峠三吉他の原爆詩人たちの1955年以降の精力的な英訳本出版との関係、例えばC・ロセッティの論文でのレトリックの研究が峠の「にんげんをかえせ」の英訳に影響があるのかどうか(これは調べるのが大変だ)などを踏まえつつ、でも、大原がずっと書き続けてきたC・ロセッティ論文(これは単著にまとまっている)には、大原の入市被爆体験はさっぱり書かれていないのである(ということも全てリストアップして証明しなければならない)。大原は福原や清水に比べて、英文学者としての能力を生かして原爆詩の英訳と出版に積極的に関わったのだが(もちろん原爆詩アンソロジーの編集でも有名だが)、紀要論文では、清水のように、敗戦・被爆体験とか、それに対するアメリカへの想いとかをほぼ書いていないのはとても気にになる。
それだけ「研究」というものの枠が強固だったということか。被爆体験というのは生半可のことではないというわけで、それを文学作品を読み解いていればひとまずオーケーである「研究」に盛り込むことは嫌だったということもあるのかも。つまりは「研究」と「被爆体験」の乖離(その是非は性急に結論はできないだろう)がここにもあるということになるか。

これに(4)「碑文」の英訳に関わった、戦前から英詩を講義したり著作を書いていた雑賀直義をいれられれば(といっても雑賀の戦前〜戦後に渡る詳しい研究ってあんまりなく、一番準備が遅れている)、ようやく小さな本を作れるかもしれない。
その本は、稚拙ながら、私の3/11以降の英米文学研究のあり方についての提言的なものにもなるだろう。前著『帝国日本の英文学』ラストの宿題にやっと手をつけるということにもなる…といいな。

あー、だらだら書いてしまった。長文本当に失礼いたしました。