拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

父の思い出(3)

今日と明日は有給をとったので、今朝はのんびり朝風呂(いつもは朝6時に風呂に入っているーー私は朝風呂派)に入った後、ブログなどを書いていたのだが、そうすると「軍艦島コンシェルジュ」から明日午後の軍艦島周遊についてリマインダーが届き、そうだあれは炭鉱なんだ(当たり前)、明日の午後に行くんだなと考えていると、父と夕張と炭鉱の思い出話をちょっと書いておくタイミングではあるなと思った次第。
親父が生まれたのが1936年、夕張北高に入学したのが1951年4月だと思う(が資料がない)。夕張北高で3年を過ごし、なぜかMITで学問をする欲望を掻き立てられ((1)で書いた)、しかし現実はアメリカ留学など到底無理なので、北海道大学に進学する資金を新聞配達で稼ぎながら(家計を助けるためにやっていたらしいが、進学費用も貯めていたという)勉強し、進学に金のかからない教育機関、例えば気象大学校(とはいえここが現在の「気象大学校」になったのは1962年だから、親父が言っていたのはおそらく中央気象台研修所(1951年設立)→気象庁研修所(1956年設立)のことだと思うが)なら北大に行くより金もかからず、山岳部員としては願ったり叶ったりの選択肢だったこともあり、ここに行くことも考えつつ、卒業を迎えたようだ。ある時親父が「富士山測候所で暮らしたいなあ」と言っていたのを覚えている。
これは親父から直接聞いたわけではなく、母親や叔母たちからの断片的情報から想像するしかないのだが、親父はとにかく夕張から、炭鉱から離れたかったのだと思う。これは一度、はっきり言っていたのを私は記憶しているのだが、「坑内に入るのは怖くてとてもできない。自分は絶対に無理」だったという。熱いし、万力で木や鉄を締め付けるような音がすごいのだそうだ。事故が起これば、爆死か、メタンガスで窒息死か、溺死ーー消火のために坑内に水を入れることはあった。実際、1981年の夕張新鉱の事故では坑内に水を入れている(ウィキペディアなのでアレなのだが、「事故発生から6日目の10月21日、会社は59名の安否不明者に生存の可能性はないと判断し、同日に行われた家族への説明会で当時の社長林千明ら幹部は注水への同意を要請。不明者の家族は「命をよこせというのか」と激怒したが、林は「お命を頂戴いたします」と発言。翌22日には幹部らが不明者宅を戸別訪問し、この日までに全家族から同意書を取り付けた」という記述があって、これは『注水、ついに開始』北海道新聞(1981年10月23日付夕刊、1面)(縮刷版857ページ)というソースに基づいて書いてあるし、これは私自身も記憶がある)ーーという無茶苦茶に危険な職場は、親父にとっては嫌だっただろうとも想像する。親父の父親、鉱夫頭だった私の祖父のように、こういう危険な職場で「侠気をみせる」という発想は親父にはなかったのだろうと思う。
親父には鉱夫頭だった父親への反感があったと思う。鉱夫頭は鉱夫の陣頭指揮をとる鬼軍曹、要するに大変な嫌われ役である。また、この父親(つまり祖父だが)11人の子供を作っておいて、母親(つまり祖母)に非常に重い負担をかけ、さらにはひどい貧乏生活をさせていたのだから、当然かもしれない。(この鉱夫頭だった祖父については書くこともあるかもしれないが、親父以上に情報がない…。)
ともあれ、親父は1954年春に夕張北高を卒業し、北大に進学するはずになっていた…。これは実際に受験したのか、それとも受験準備をきっちりしていたという意味なのかわからないのだが、ともあれ北大に行くあてがあったという。ところが、ある日、帰宅すると、母親から「お前は拓銀に就職が決まったから、そこでお世話になって、妹達の面倒もみて欲しい」といきなり言われたのだそうだ。このエピソードはなんども言っていたのを私は記憶している。親父の兄2人はすでに夕張を離れており、ここで親父も夕張を離れてしまうと家計が無茶苦茶になる…ということだったようだ。妹たちの面倒もみろ、と。それは親父の責任ではないと思うのだが、そうせざるを得ないくらい貧乏だったということなのだろう。
さすがに親父も絶句して、泣いたりわめいたり(かなり激しい感情の人だったと、今は思う)相当すったもんだがあったようだが、結局「北海道拓殖銀行」に務めることになった。近所からは「鉱夫頭のせがれが拓銀に入るなんて出世したもんだ」とほめられたようだが、学問への道を断たれ、夕張近辺の支店で働きつつ、実家に金を入れ、妹たちが高校を卒業するまで面倒を見る生活が始まったわけで、うれしくもなんともなかったという。結局、学問の世界とは縁が切れて、まだしばらくは夕張から、炭鉱町から、縁は切れなかったということになる。
その親父が、羽幌支店で、羽幌炭鉱の閉山に伴う支店撤退の「しんがり」をつとめさせられたこと、それがいわば拓銀での出世の一つのきっかけになったことは、また書くことがあるかもしれない。