拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

備忘録:スペンダーについて(1)(*原爆への言及)

スペンダー「結語 新しい正統」『夢・絶望・正統 創造的要素 第二部』(原著1953年;筑摩書房、1957年)、174頁〜175頁より引用。第一部、第二部を通して、原爆について明確に触れている箇所はここだけ、のはず。なお、旧字体や漢字は適宜なおしてある。

近代世界は前例のないほど専門化されているが、専門化された知識は、いくつかの不快極まる経験を産み出し、それが誰も彼もの意識のなかへ忍び入った。例えば原子爆弾は前代未聞の爆発物であるが、その理由は、それが甚大な物質的破壊をもたらしたことよりもむしろ、誰も彼もの頭のまんなかで炸裂したことにある。それが吹き上げた灰の巨塔が崩れ去ったとき、それと同時に次のような思想、すなわち、この世には異常な内的経験を持つ人びとがいて、その経験が他に伝えられさえすれば、誰でももっぱらその経験の理解に努めたいと望む人に巨大な価値を創造してやれるのだという思想も、またほとんど消え失せてしまったのである。われわれの頭の全構造のどこかよく分からない一点で、現代人の意識は、万人ひとしく与る破壊のなかへ溶かしこまれ、各人の脳味噌の上に文明死滅の弔詩が書きつけられたのである。
 今や単独者の夢は破壊してしまったのだから、未来の文学は、もっと万人の参与する、もっと孤立的でない神話を基盤としてうち立てられなければならないように思われる。
 むろんこのことは、今日見られる正統キリスト教的諸観念への復帰を正当づける一つの理由である。しかし、新しい正当の作家たちは、そのような生の基盤の上に文学を築くためにほとんど何もしていない。エリオットの詩は、生と生者よりもむしろ死者に集中しているし、オーデンは、彼自身とオーデン宗の読者に、信仰を持てと説得するような、予兆的宗教経験の処方制作に大童になっている様子だ。(以下略)

スペンダーは、1958年5月の広島講演で語っていないこと、例えば原爆のような巨大な破壊の後の「未来の文学」のことなどは、この1953年の本ですでに語っている。なお、1958年講演ではエリオットの重要性をずいぶん強調していたけれども、この本ではエリオットでは不十分と書いている。イブリン・ウォーやグレアム・グリーンでもダメ、と。じゃあどうするの、ということになるのだが、結論がどうも竜頭蛇尾というかなんというか…。これはまた後日アップする(予定)。