拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

スペンダーについて(2)(*結局occasionalな原爆詩を書いている)

今手元に資料がないので、明日(以降)研究室できちんと資料を引用して書き直す…かもしれないけど。まずはブレインストーミング的に書いておく。
1958年5月のスペンダー広島公演で彼は日本の原爆詩(特に『死の灰詩集』を意識していたはず)はjournalisticでoccasionalなものではないのか疑っている、オーディエンスの意見を聞きたいと言っていたのだけれども、実際にはエリオット「荒地」第3部の「火の説教」における、16世紀のエドマンド・スペンサーによる王侯貴族の豪遊を讃える詩と、常時に耽る20世紀の男女の情事を対比させ、エリオット流「過去と現在の関係づけ」の重要性を聴衆に強調したのだった。
さて、そこで大原三八雄などが「過去と現在の結びつけを語るスペンダー&エリオットもいいけど、未来のことも考えなきゃ」と文章化しているのだけれど、実は1953年のスペンダーThe Creative Elementで「原爆詩は未来のことを考えなくてはいけない」(大意)を書いていて、とはいえどうしたら良いのかについては明言していない。単純に、未来に向けての言葉を見つけられなかったのだろうと、今は想像している私。
ここからが今日の本題。1954年に安藤一郎から『死の灰詩集』の英訳を2、3読まされて、これは悪くないと言った(と安藤は書いている)が、1958年5月公演で日本の原爆・水爆詩を、journalisticでoccasioanlだと言って、少なくとも褒めていなかったスペンダーについては、私(齋藤)は昨年12月の原文研究会で発表した。
その後調べていたのですが、この公演のあとに朝日新聞に「広島の再建」(朝日のデータベースでは「スペンダー」では引っかからないので、スペンダーの他の著作の付録からその存在を発見したのでした)という非常に短い詩を寄稿していたのでした。
訳と解説は安藤一郎。内容は、『死の灰詩集』に堀口大學が寄稿した「灰の水曜日」(福田陸太郎の英訳タイトルはAsh Wednesdayで、これは1954年にスペンダーが読んだ可能性がある)には遠く及ばないと思う。これは第五福竜丸他の漁船に降りかかった「死の灰」を、キリスト者にとって重要なAsh Wednesdayに重ねて(重ねたのは福田陸太郎だが)、それによってどう考えてもこの作品をエリオットの同名タイトルの詩と比較して読むように工夫した詩になっているのだから。福田のファインプレー?を考慮しても、堀口&福田はこの作品を戦略的に書いていると詩だと思う。
で、スペンダーの「再建の広島」なのだが…。青い空があって、原爆ドームがあって、私はあの悲劇に想いを馳せる見たいな(スペンダーはV1やV1IIロケットによる爆撃を目撃してはいるから、空襲の悲劇についての想いはあると思う)、これこそ新聞社にお願いされてさらさらっと書いたoccasionalな詩なんじゃないの?というようなもの。安藤も詩自体を褒められず、「『死の灰詩集』について記事を書いて、それに日本の詩人が反応して論争になったが(これは野坂さんが『事典』でお書きになっている)、ともあれ広島にきたスペンダーは原爆詩を書いたのだ。これはよかった。その出来はいいかどうかは別なのだが」と言い訳じみたことを書いている。
というわけで、スペンダーはアメリカの文化政策のエージェントだ、冷戦戦士だとか言われますが、そしてそれは否定できないのですけれど、どこかでフランク・カーモードが書いていたように(記憶するが)、スペンダーは自分がどういう立場でどういう仕事をしているのかについては無頓着だったという。この人の行動自体がoccasioalということになるんじゃないだろうか。ひょっとすると、アメリカは彼のその無頓着さというか軽さというか旅行・講演好きというところを、冷戦期に重宝したのではないかと、ふと思ったのであった。エリオットは日本の大学20箇所で講演しまくるとかしなかったですからねえ。スペンダーはこの強行軍をこなしたとのことで、これはちょっとすごいと思う。こういう講演録、全部まとまったものがないかどうか、ただいま調べ中です。