拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

私費で四冊がーっと購入

魚住昭野中広務──差別と権力』講談社、2004年
酒井隆史『暴力の哲学』河出書房新社、2004年
渋谷望『魂の労働』青土社、2003年
バレンボイム/サイード『音楽と社会』中野真紀子訳、みすず書房、2004年

魚住の本には興味がある。「内地」で差別されたマイノリティーの移住先としては、アメリカばかりじゃなくて北海道でもあるはずであって、そこに中国や朝鮮半島やロシアからの人々が交じり、さらにアイヌが交じり(この点については例えば手塚治虫『シュマリ』は正面からの対決を避けているといわざるを得ない)・・・ようするに「道産子」というのはどこの馬の骨だからわからん連中の後裔なのだが、そしてそのことをそれこそサイード的にelaborationしてゆくべきだと思うだのが、なかなかそうもいかないようだ。というわけで、私は、中川一郎(昭一ではなく)と鈴木宗男のことを考えつつ(どちらも本当に貧乏な家の出身だ)、あるいは萱野茂(この人のあとを継いで国政に関わってゆくアイヌはいつでてくるのだろうか)のことを考えつつ、野中広務について考えたいと思うのである。
野中広務』を読んでいる。以前宮崎学『近代の奈落』を読んだことをきっかけに、部落問題については少しずつ本を読んでいるが、やはりこのテーマはキツイなと感じる。文字通りの闘争だから。魚住さんもこういう問題を扱うことは「業だ」と書いているが・・・この人は真っ当なジャーナリストだなと感じるし、真っ当なジャーナリストというのは凄いものだと感じる。「「道産子」というのはどこの馬の骨だからわからん連中の後裔なのだが、・・・そのことをそれこそサイード的にelaborationしてゆくべき」だなんて↑で書いたけれど、これはシンドイ作業になること間違いなし。でも、何らかの形で、やらなきゃな。やらなきゃな、というのは、私が先駆者になるということでは全然なくて、もう「elaboration」を目指す作業が少しずつ積み重ねられているのであって、そういう作業をまず知ること、ということである。