拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

コプチェク読書メモ4

今のところ第1章に非常に刺激を受けている。2〜4は1章の変奏としてさらさら読む。

昨晩、コプチェク読了。序章、第一章、第5章に興味を持った。
第5章から。

カントのいう内なる裁判官は超自我と厳密に等価的である、ということはすでに指摘した。超自我は、フロイトが記述したように、われわれが努力して道徳的に向上するにつれて非難の声を強くし、支払う犠牲が大きくなればなるほどよりいっそうの犠牲を要求する。『〈女〉なんて・・・』(p.213)

「過労死」という言葉が思い出されてしまう・・・。

われわれはいかなる時においても、罪に、根元悪にすっかり染まっているように見えるが、フェノメナルな視点に立つ限りそう見えるのは当然だ。恩寵こそが、上からの〔超越的〕視点、現世に拘束された不完全な存在者ではなく、完全な存在者のヌーメナルな視点をわれわれに与えてくれるのだ、と。しかしながら、こうした説明は崩壊する。なぜならば、「ヌーメナルな視点」、上からの視点は、われわれの「内なる告発者」の、超自我の視点であり、恩寵はそのような視点を表象するのではなく、逆にそれを粉砕するからだ。われわれがつねにすでに、感性的動機と道徳法則とのヒエラルキーを転倒させてきたように見え、利己的な法則にしたがってきたように見えるのは、内なる告発者の視点に立つからなのだ。しかし、こうした視点を捨てて、無限に続く時間のなかに身を置くならば、恩寵はわれわれの上に「降りてくる」。この時、恩寵は、まだなにも決定されていない空間を時間の流れのなかに切り開く。主体がこの空間に入る経験は、享楽jouissanceの経験、つまり不相応な、予期せぬ、求めてもいない快楽の経験であり、こうした快楽が人間を人間自身から解き放つのだ。(同上、pp.222-223)

過労死や鬱はいやなので、享楽の方がいいな。