拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

石原、香山、小樽の問題

『〈私〉の愛国心』を読んでいたら、小樽の問題が出てきてちょっと驚き、興奮した。
香山の記述を私的に適当に補いながらメモしておく。
1933年生まれの石原は、以前このブログでも紹介した佐野真一『てっぺん野郎』(講談社、2003年)でも詳細に語られているが、全盛期の小樽で過ごしている。父親は山下汽船の重役で、いわば小樽の「山の手」(具体的に言うと、緑町から南の方だろう)の住人であった。つまり、(あの吉田司が書いているそうだが)石原は例えば多喜二が問題にしたような階級の人間とはつきあう必要がなかった、会うことがなかった人間なのだ。だからこそ、マイノリティーに対してそれほど配慮することなどあまり眼中にない。
(思い出した。英語部の先輩で北電(北海道電力)にいるある先輩の下宿が、石原家があったはずの町の近くの、古いがしっかりした木造の旧家だった。古いけれども立派だったなという記憶が蘇ってきた。ああいう家に石原家は住んでいたのだなと今一人で納得している。うん、確かにあのあたりなら港も見える高台の、まさに「山の手」だ。もちろん一番上には小樽商大があるのだ。)
さて、1960年生まれの香山はどうだったか。彼女は、特に東京に出てからは、北海道の「ルーツのなさ」「ジェンダーの縛りのゆるさ」を実感しそれを享受していたのだが、小学生のとき、山中恒『サムライの子』を読んでいたこと、そしてそれを2003年、石原が知事選で圧倒的勝利を収めた後に思い出してみると、この話は小樽にかつてあった一種の被差別部落“サムライ部落”の話なのだったということを再確認したのだという。再確認であるから、小学生のころはこういう存在があることに気が付かなかったのだ。つまり、この意味において、香山も石原と似たようなものだ──小樽における「勝ち組」と「負け組」のドロドロを知らなかった、知らずに住む環境で育ったという意味において。しかし、香山はマイノリティーの立場から発言し、執筆しようとすることになってゆく。
この本は〈私〉が壊れたあと、急速に〈公〉に向かってゆく現状の分析だから、このエピソードがこれ以上突っ込んで語られることはないが、私も小樽商大卒業だし、多喜二にも慎太郎にも感心があるから、とても面白かった。
私もついでに書いてみるか・・・。
1968年の私は、1987年春に小樽商大に入学したのだが、“サムライ部落”なんて全然しらなかった。ただ、叔父が小樽出身の市の職員をやっていた人で、サークルが学園祭に出展する時に小樽の中小企業から広告をもらってくることになって、いろいろお世話になったことがあるのだが、その時普段は歩かない箇所をずいぶん歩いたことがある。昔の遊郭の後は分かった。“サムライ部落”かどうかは分からなかったが、──小樽の郷土史を読めば分かってしまうのだが、小樽文学館が時々やる郷土史&文学ツアーに参加すると分かるのだが、そしてろくに出席もしなかった社会学の担当、倉田稔教授〈『小林多喜二伝』(論創社、2003年)の著者〉だったら、拓銀絡みでさらにコアな情報を詳しく知っているはずなのだが──明らかに小樽の「山の手」とは違う雰囲気の場所もあったなあと、ふと思い出す。もちろん、その時小樽という街の階層性なんたらなどはほとんど意識していなかったのだが、私もちょっとした中小企業廻りというか遠足(みたいなもんだわな)をやったおかげで、「北海道は“みんな”ルーツがなくて自由平等だ」という思いこみからは少しばかり解放されたのではなかったか。(また記憶が蘇る。それこそルーツもへったくれもない〔という神話が残っていた〕夕張育ちの両親も、「小樽は古い街だから〔冠婚葬祭〕いろいろあって大変らしいね」と言っていた。)
もちろん、当時の印象がそのまま記述出来るはずもなく、現時点での記憶の捏造ではあるのだが。
そういえば、この広告取りの時、北海道拓殖銀行が「拓殖」銀行であること、それゆえのメリットがとても大きかったことは(何度目かは忘れたが)実感したのかもしれない。小樽市の職員の甥っ子で、親父が拓銀となれば、これは、強い。

香山の本に戻れば・・・香山と石原の違いは何か。このあたりをもう少し書いて欲しかった(というのは無い物ねだりだが)。