拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

ずーっとひとすじにおわりのいとしいえんえん

最後のアナ・リヴィアの言葉の美しさとすごさを、やっと届いたフェイバー&フェイバー版を参照しながら確認し終えた。満足。
彼女は、男女たちの植民戦争や性的暴力やその結果を水というか川に流してしまうものとしてではなく、「忘れて!覚えていて!」と訴える。そして、周知のごとく、彼女の最後の言葉theは、冒頭のriverrun, past Adam and Eve's [...] Hostle Castle and Environs、柳瀬訳の解釈によれば(男と女の、そして〔Here Comes Everybody〕あらゆる人々の)「川走」(戦争)につながっていくわけだ。
最初はペンギン版、一昨日からはフェイバー版と柳瀬訳をにらめっこしながらの読書はもうおなかいっぱいで、植民地や性暴力の問題については、およそ表象のレヴェルに限って言えば、このテクストを読み、自分なりに消化していけば、文学者としては、ひとまず十分なのかも、とふと思ってしまうのであった。ある意味最強のテキストの一つではないかと(当たり前か)。
フェイバー版を通読するのはたぶん無理だけど、半年なら半年をかけて、Ⅰ巻最後とⅣ巻は各種の訳を参照しながらじっくり読み返したいな。

文庫本第三巻(Ⅲ&Ⅳ)では、アイヌ語地名は、私が反応できた限りでは25〜6個。「斜里」(イアウィッカーの住居として確定しているようだ、柳瀬訳では)は結局4回使われており、「羅臼」はもっと多い。結局、文庫本全三巻では80を超えるんじゃないだろうか。

Finnegans WakeのFinnegansって、Finとbegin(began)の複数形が、つまり最初と最後がねじ込まれた名前というか記号だったのだなあと遅ればせながら気づいた(つもりなんだけど、いいのかな?)。いや、Fをひっくり返したらbにちょっと似てるかなと。
むろんジョイス専門家なら各種の解答を持ち合わせているんだろうが、私は全くのド素人だから、ちょっと嬉しい。仮に間違いにしても。
と、こうなると、ベケットの論文あたりから、最低限読まなきゃならないジョイス本くらいはチェックしないとダメだなあ。

それにしても、30後半になってから、やっとこの小説を体験(読んだとは書けない)したとは、遅いねえ。