拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

土着主義と普遍主義

などという問題設定もどうかと思うのだが、台湾で日本語(と英語)について考えた後、以下の二人の著作を読んで、いろいろ考えている。

沖縄文学という企て―葛藤する言語・身体・記憶

沖縄文学という企て―葛藤する言語・身体・記憶

台中の東海大学でこの人と同じセッションに参加して少し話をしたが、「《沖縄》ではナショナリズムを持ち出さざるを得ない」と言っていた。
沖縄でナショナリズム?ネーションじゃないだろ、と言われるかもしれないが、これは私も驚いたのだが、台湾の中正国際空港に到着する那覇からの飛行機はRYK、つまり「琉球」からの到着便となるのであって、JPN、「日本国」とはならないのである等々、論者によっては「ナショナリズム」と言いうる状況があるようなのだ。
で、この(アメリカ&日本による植民地状況に対抗するための)ナショナリズム的傾向について思考を深めるには、以下の著作が参照軸になると思う。昨日早く就寝して今朝は4時に起きてしまったので、読み切ってしまった。
最近ではポストコロニアリズム抜きで語ることが難しい感さえあるアイルランド文学、特にイエイツにおけるネイティヴィズムと普遍主義とのバランスをとろうとして苦闘するこの人の誠実さは伝わってくる。
この本では直接触れられていないが、マスメディアで書いたエッセイ等々では、沖縄文学の過度のネイティヴィズムに警鐘を鳴らしているという(未読)。この米須さんの議論を、上記の新城さんの沖縄文学論と比較して読んでみたいと思う、時間があれば。

ちなみに、米須さんの旧著『ミメシスとエクスタシス』は、私が小樽時代に恩師N教授から紹介された最初の文学理論書であった。懐かしい。