拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

planetary reading

1997年、スピヴァクさんは空の☆を見て、"planetary reading"を思いついたと講演で言っていた。
Globalizationはthe Globeの極限化である。で、この"the" Globeに対抗するために偏狭なidentitarianあるいはnationalisticな文学や文化が称揚されたりする。これでは不毛なたたき合いに終始するだけだ。が、地球というのは"the" Globeではなくて単なる"a" planetなのだという視点もあり得る。"the" planetではない。
・・・でこのあとちょっと論旨を追えないところがあったのだが、具体例としてパムク『イスタンブール』という紀行文とでもいうのかな、このテクストを引き合いにだして、こんな風に話していた。これはおっと思ったな。

Istanbul: Memories and the City

Istanbul: Memories and the City

このテクスト▲にでてくる「イスタンブール」はあくまでヨーロッパ側である。アジア側はどうか。わずか一行だけでてくる。それは『そこはサンパウロのように貧しいのだ云々』という形で出てくる。OK。しかし、サンパウロは貧しいのか。貧しい場所しかないのか。この会議の会場であるドシュ大学があるカドキョイ@アジア側は貧しいのか。どうなのか。

私の理解では、パムクの想像力は、"the" Globeの極限化であるglobalizationに対抗しようとするあまり、"the" Istanbulを持ち出してしまっている。あるいは"the" Sao Paulo。ちがうでしょ。an Istanbul、a Sao Pauloを想像しましょう、と。どうもこのような考え方がplanetaryということらしい。
同行のC先生は、"a" planetと言うときの「視点」はどうも天上のそれでかなりspiritualなんじゃないか、彼女はマルクス主義者じゃなかたっけ?とつぶやいていた。
うーん、どうなんだろな。ちょっとspiritualに聞こえてもいいんじゃないか。アイデンティティ・ポリティクスの行き過ぎに嫌気がさして全体性とか大きな物語をもう一度とか、そういう話ではないんだから、とか思ったりして。

で、ヨーロッパ側の観光地を歩き、グランバザールからイスタンブール大学へ向かい、そうかここでアウエルバッハが『ミメーシス』を書き、最後のページで「西洋文学への愛」と書いたんだった、でこれはナチスによるヨーロッパの破壊に対する抵抗であり、反動的なものだと決めつけるのはどうかというようなサイード他の擁護的なコメントがあることを思い出し、しかし60年前のイスタンブールならば今よりもヨーロッパ側(新&旧)/アジア側のギャップがあったんじゃなかろうか、そうするとアウエルバッハの書いた言葉もまた違ったニュアンスを帯びてくるのではないか、というのも目の前に(パムクのようなトルコ人ですら「他者化」してしまう)「アジア」がリアルに存在していたのだからとか、つらつら考えてしまったのだった。
だいたい、日本の英文学者で『ミメーシス』英訳を読んでいない人は少ないだろうが、実際にイスタンブールを歩き回ってこの本を精読した人っているのだろうか。いや、私だっててんでダメダメなんで、例えばイスタンブール大学が現地の最高学府ではないこととか、ジハンとかその友達とかに聞くまで全然しらんかったわけで(むろんこれも歴史的資料に当たって考証しなければならないことではあるが)。
本は持って街に出ようということでしょうね。