拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『青猫』を読んで、石川も読む

学生が萩原(「朔太郎」とか「漱石」という表記は嫌なので「萩原」「夏目」と表記したい)『青猫』所収の「輪廻と転生」でレポートを書くというので、今朝早く起きて読み始めた。

青猫―萩原朔太郎詩集 (集英社文庫)

青猫―萩原朔太郎詩集 (集英社文庫)

本当は近代文学館とほるぷ社が作った1923年版の復刻版で読んでいたのだが、「はまぞう」ではこれしかでないのでご了承を。
恥ずかしながら萩原の詩集を読み通したのはこれがはじめてで、ボードレールマラルメを一生懸命読んで「日本語」の「自由詩」を確立しようと苦悩、いや「憂鬱」する詩人の格闘に、かなり素直に感動した。
ただし。
どうしてここまで「日本語」にこだわるのか。"Hagiwara-Sakutaro"と署名している萩原、いっそのこと漢字・ひらかな・カタカナを捨てて、横書きローマ字+フランス語の挿入という実験をやってみて、それをフランス(語圏)に持って行くという発想は浮かばなかったのか・・・と、当時の帝大出身者が抱えていた「ふらんす」の大きさと重さを考えず、つぶやいてみる。
啄木・ローマ字日記 (岩波文庫 緑 54-4)

啄木・ローマ字日記 (岩波文庫 緑 54-4)

石川の『ローマ字日記』に英単語をぶち込んでみて、英語話者と日本語話者の両者がどちらも「がまんできる」「まあわからないでもない」というテクストを作り上げることは可能なのかということを、『ディクテ』や『フィネガンズ・ウェイク』を読んで以来、つらつらと考えている。
けっこうマジで考えている。