拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

院の授業1(録画中継)、土曜の予定

『植民地幻想』第一章のレトリックの具体例。

ビルマの竪琴』について「各種の辞典や解説が一致して指摘する」(2)のは、これがレクイエムであり、国境を越えた人類愛である、ということをふまえて、

私はこうした評価や意図や宣伝に意義をとなえるつもりはない。(2)

とくる。
そうですか。
ところが、このあとに、正木さんはこの陳述を裏切る事実をアイロニカルに列挙してゆく。

  • 第一話「歌う部隊」のクライマックスは「いくらなんでも甘すぎるという批判はまとはずれというものだろう」(3)とくる。
  • さらに、生存者の戦記やテレビ番組によってインパール作戦の失敗が周知のことになったとはいえ、「この作品の価値が減ずるわけではあるまい」(3)。
  • だめ押しで、ビルマ僧となって鎮魂の行脚をする水島上等兵という設定にも、「作者によれば(「できるまで」)それなりの現実性がないわけではなかった」(3)。→ちなみにこの「それなりの現実性」も7頁においてビルマ仏教では楽器演奏を禁じているという事実を紹介することでダメだししている

そしてこの段落は次のセンテンスで締めくくられる。

全体として『ビルマの竪琴』は、メルヘン風の構成と叙述にもかかわらず、死者の鎮魂と、戦争体験の若い世代への伝達という作者の意図を、じゅうぶん実現しているといってよいのである。(3)

ビルマの竪琴』、これじゃ「こうした評価や意図や宣伝」を「じゅうぶん実現して」いないでしょう(怖)。
男性ドイツ文学者の二流意識をやりこめる高田さんをふと思い出す。いや、もっと徹底した批判なのかもしれない。
他にも学者の「冷静で客観的な」態度への、たたみかけるような批判も味わった(9-12)。
・・・このあたりからちょっと議論がずれてくる・・・。
もちろん、「この程度のレトリック分析なんて初歩の初歩だ、ド・マンやデリダ読んでいる院生にはちゃんちゃらおかしいぜ」と思っている人もいるかもしれない。(いや、思っているだろ?)
だけど、ド・マン(故人)、デリダ(故人)といったヨーロッパ人のテクストのレトリックは舐めるようによんで、文句をつけて、しかも呼び捨てにしているくせに、どうして日本人学者のテキストは舐めるように読まないの?(だってちゃんちゃらおかしいほど簡単なレトリックなんでしょ?)しかも「センセイ」なんてつけちゃって。(ここで昨日言うのを忘れたのは、ヨーロッパ人は呼び捨て、日本人は「センセイ」ってのはやめて、全部「さん」をつけて議論しようということだった。これは広島大の柳瀬さんのアイデア。)
「センセイ(私のこと)、でも日本ではこういう批判ややり方って禁じられてますよね」。その通り。だから、私らから、こういう悪い習慣を打破していこう!
さあ、私ら若いモンもこういうレトリックを身につけよう!立場や年齢なんかぶっとばして、お互いを呼び捨てにして、たたき合おう!
でも現実として院生は処世術も必要なんだよねOTL

・・・というような授業あるいは(竜頭蛇尾な)アジテーションだったとさ。
来週は「学者」正木恒夫の実力を未読する予定。