Sat, May 29
- 01:28 RT @odg1967: 三ノ宮に行くなら、スペイン料理のカルメンがお薦めです。チョー本格派。シェリーの充実度パネェっす。ぼくはいつも最初にオロロソを頼んでいます。 http://www.warp.or.jp/~maroad/carmen/
- 01:20 呑む。肉を喰う。日曜夕方(のみ)の観光。月曜日の朝一で神戸空港から茨城空港に飛べば、午後からの大学院ゼミができるという。便利だなあ。
- 01:18 RT @odg1967: まあ、三ノ宮の夜が楽しいことも否定できないのですが……。
- 01:18 RT @odg1967: 神戸大学で学会ならば、二次会は阪急六甲のすぐ近くにある六甲苑がお薦めです。一昨年の社会思想史学会は二日ともここで打ち上げを。人数が多くても大丈夫で値段も安い。
- 00:46 英米文学英語学クラスタのみなさま、明日はここでお会いしましょう。では、晩安。http://ow.ly/i/1Nmy
- 00:28 神戸空港>ポートアイランド線でJR三宮>JR六甲道>市バス16番>国際文化学部前、が一番よろしいかと。というかそのようにProceedingsには書いてあるのだが。
- 00:27 神戸空港で降りてタクシーに乗って「神戸大学の国際文化学部お願いします」といったら運転手さんに「どこの建物ですかね?」と言われてしまい、あれわからないものなのかなと思ったのだが、なるほどわかりにくいなあ。灘区鶴甲1−2−1でございます。ちなみに5000円かかったorz
- 00:22 つくば人としては、関西(以西)出張はスカイマークの茨城/神戸がデフォになるっぽい。だって安いし早いしなんだもの。
- 00:15 RT @Cristoforou: RT @rhinoball: 「ゴドーを待つだけの簡単なお仕事です」
- 00:12 お、神戸に到着したのね?いやあ、海と山の狭間にある大都市>強化版小樽って感じはいいなあ。ちなみに茨城空港(百里基地)>神戸空港は「つくば人」的には超楽です!RT @hiroponholic: 最高の夜景、あんど、オタク定義談議、、、そして、、、神戸
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『翻訳の政治学』読書メモ
本書は既に序論において、このような問題意識を「翻訳」の議論として展開することを提唱し、相互に相手の主張を翻訳しあわないことによって維持されてきた近世中華世界の外交のあり方を崩壊させ、西洋語という共通の文脈への翻訳を強制したものとして、ウェスタン・インパクト以降の「短い近代」という時代を把握できることを示唆しておいた。(42頁)
さまざまな意味作用をひとつの訳語に定着させようとする立場は「短い近代」的な立場であり、そうしない「よきにはからえ」という立場は「近世中華世界」的立場ということになるか。明治期の英学>英文学は前者にあたるか。後者の立場の「英文学」というのはあるのか。
ここで自分のことを考える。
「アジアにおける英米文学の受容と変容」などというのをやってきた私(たち)は「近世中華世界」「よきにはからえ」的立場ということか。
- 私(たち)は「翻訳」よりも「翻案」を(「シェイ屑ピア」プロジェクトも含めて)を論じてきた。
- 私は、フツウの読者のために「ひとつの訳語に定着させよう」と苦心惨憺した宮田恭子さんの訳を常に参照しながらも、「よきにはからえ」な柳瀬尚紀さん訳を偏愛してきた。*1
・・・さすがにおおざっぱすぎるが、「アジアにおける英米文学の受容と変容」という科研プロジェクトは「近世中華世界」的だといわれれば、ああまさにそのとおりだという気がする。8月のICLAでやる「Reconsidering」シンポの総括はこの路線でいくか。
・・・とはいえ、「近世中華的」な「よきにはからえ」科研プロも、それが放置プレイじゃしょうがない。それでいいという考えもあるが、さすがに何かヴィジョンを出さないと次の科研があたらないだろうw
一九世紀末の東アジアで形成された英語言語圏の抱えた問題はこの意味で、現代においてもあらゆる「公共性」が抱える矛盾を体現したものであったと考えられる。(中略)正義な公正の達成のために重要なのは、「私的言語」を夢見て「共通の言語」を拒否することではなく――つまり、他国との「対話」の欠如ゆえに成立していた近世期の「独話論的(monolingual)な普遍性」〔山下1998: 158〕を懐古するのではなく――、むしろ使用者を共通の規則に服させるという言語の性質を活用して、その「規則」を優越者であっても恣意的に離脱できない、自己拘束的なものとして機能させていくことだろう。いかに不平等で暴力的な起源を持っていたとしても、そのような「公共性」の存在可能性を東アジア諸国間に初めて開いたのが居留地英字新聞の言論圏だったのであり、それが同地域における「西洋の到来」という、狭義の「近代」の意味であったのである。(65頁)
こういう議論は始めてではないのだが、日琉(中)関係論において、しかも「翻訳」という名前においてこういう議論を読むのは、英文学業界に生きているものとしては、非常に新鮮であり刺激的である。
*1:柳瀬訳だって、非常に暴力的に、多様な原文の意味を解読可能なレベルに還元している翻訳だ。