拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

佐藤清『ポープ研究』(西洋藝文雑考)、京城帝國大学法文學部、1933年

ロマン派が好きな佐藤の古典主義者ポープへの評価は微妙な感じです。

ポープは智的な鋭利な観察者であり、最も真実な感情の所有者であり、更に、異常なる韻律の美の創造者であつた。我々は彼の作品が證明する所のこれらの事実を否定することができない。(p.194)

と一応評価しているようですが、

上述の如く、諷刺詩の内容は、憤怒又は義憤であつて、愛とは反対の感情である。愛が積極的の利益や慰藉を人に与へる建設的な感情であるに反し、憤怒や義憤は破壊的であり、破壊的ではないとしても、少なくとも、消極的、索制的であつて、全然愉快な感情と言ふことはできない。(中略)之に反して、抒情詩に取り扱はれている所の感情、即ち、愛は、人の欠点を見ない。寧ろ、欠点ある人を理想化する。随つて之を読む普通の読者は読んで愉快を感ぜざるを得ない。所が、「諷刺」は人の欠点を挙げて、時には全く悪意を以つてそれを嘲るのであるから、嘲けつてゐる事実そのものが全く「真」でなければ読者は不快の念に堪へないであらう。だが、若しそれが全く真であり、その嘲笑も私憤からでなく、公憤から来るものならば、それは絶対真理に近いやうな重量をもつて人に迫るであらう。諷刺詩は、その内容を為す所の憤怒が客観性を有するか否かに依つて決せられるのはこれがためである。然らざれば、その主観性そのものが、他の方法に依つて客観性を与へられなければならない。そしてポープの諷刺詩の価値は此の主観的感情が一種の技巧に依つて客観化された所にあるのである。(pp.194-195)

と、しょうがないから誉めるか、という感じです。

実際、佐藤はポープの最も抒情的な作品を評価しています。

一七一七年、ポープはElegy on the Unfortuante Lady及びEpistle of Eloisa to Abelard等の作品を集めて出版した。Unfortunate LadyもEloisaも同時期の作品であり、又同じやうな傾向の作品でらうが、作の年代は不明である。そして便宜上こヽには、Eloisaだけを挙げるが、ポープの作としては、白熱的な情熱の抒情詩であつて、ポープの詩人的気質を決定する上に最も大事な作品である。ポープの律格的、修辞的技巧、風刺的傾向、及び、完成されたmock-heroicに示された複雑な芸術的天分、感覚的、理智的、空想的要素等は既に示した所であるが、詩人の構成要素として最も重要なる要素、即ち、感情的要素の展開は、此の二編の作に於て、初めて充分に之を見ることが出来るのである。(pp.70-71)

・・・と、佐藤の本を読んでいるのですが、要するにポープ作品の梗概と、一九世紀後半〜二十世紀初頭の批評家の意見をまとめたもので、格別面白くもありません。学部の学生向けの入門書だったのかなあと思います。