拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

〈英文学〉への不撓不屈の愛(w

最後の時まで、つまり必ずアンティゴネーを崩壊させることになる行為がもたらす重大な帰結の時まで持続する彼女の固執性、不撓不屈は、近代的前進への帰依または自己分裂としてのクレオンの固着性と対照的である。この対照によって気づくのは、「欲望のリアルにしたがって行為すること」と、自己本位に行為すること、つまり自己の連続性を保つために行為することとの違いである。固着性の原理は、ラカンによって次のように分節化されている。「労働を続けなさい。労働を停止しないように。・・・・・・欲望についてはまた出直しなさい。欲望は待たせておきなさい」。ここにおいて〈労働〉は、終わることなく続く──あるいは待ち続ける──かぎり、行為とは異なる。(『〈女〉なんて・・・』、pp.71-2)

「不撓不屈」って、やっぱり貴乃花を思い出して、笑うべきなんだろうな。

ラカンが論じているように、もしもクレオンが、限界を知らない主権権力を代表し、「すべての善を果てしなく」探し求めるとするならば、それは、彼の超自我が、純粋な満足ないしは到達不可能な目標を措定する前提として、世界に対して外的な限界を設定しているからである。この外的限界のせいで、クレオンのすべての努力、すべての満足は不完全で空虚なものになり、彼は決して到達できない目標に向かって空しく生き長らえることになる。死という限界を超えてポリュネイケスを追い立てるクレオンは、死を超えて、明らかに果てしなく、超過昏睡coma passeという(少なくとも原理的には)無限に延長可能な状態にまで主体を追い立てる近代科学を予示している。剥き出しにされた兄の亡骸をアンティゴネーが覆うとき、彼女は、クレオンが縛りつけられている裸の生存状況から自分自身を引き上げているのだ。(同上、pp.74-5)

なんだか自分のことを言われているようで鬱だ・・・。不撓不屈で、英文学します(w