拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『わたしの欲望を読みなさい』(青土社、1998年)

の終章「性と理性の安楽死」のラストにちゃんとこう書いてあった。

ラカンはこう説明している。「・・・超自我(“享楽せよ!”という命令)は去勢の相関物であり、これは〈他者〉の享楽、〈他者〉の身体の享楽は無限(無限遠点)においてしか約束されていないとわれわれが認めていることを明示する飾りであり徴なのである。」
しかし、限界あるいは例外をめぐるこの論理が、力学的アンチノミー、男性主体、超自我といったものを規定しているということをわれわれが証明するやいなや、一つの問題が生じる、というか、一見したところでは生じるように見える。超自我を発達させるには構造的に〔本来的に〕不向きであり、したがって倫理に関して放縦に陥りやすいと女性を規定する悪名高い主張があるが、われわれがこうした主張を支持しているように見えてしまうのである。これを否定するには、われわれは今のところ次の点を示唆する程度のことしかできない。それは、倫理の領野を理論化する試みはあまりにも長い間、例外あるいは限界をめぐる、この特殊な超自我の論理によってなされてきた、ということである。今や、包含あるいは無制限を原則とする倫理、すなわち女性に固有の倫理を創造するために思考すべきときである。超自我に関する別の論理があらたに展開されなければならない。(pp.292-3)

ここから『〈女〉なんて・・・』の序章にいくのか。納得。