拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

Rey Chow, "The Old/New Questions of Comparison in Literary Studies: A Post-European Perspective," _ELH_, 71:2, Summer 2004

レイ・チョウの論文は、スピヴァック『ある学問の死』を読んだ人ならそれほど難しくもない(というかスピヴァックの方が難しい)。そもそも「比較」文学というときに、今までは"Europe and Its Others"(→ちなみに、これはレイ・チョウは明言していないが、1984年にエセックス大学で出た有名な論集のタイトルである)という"Europe"の存在(そして優越)が前提されていて、これは地政学的というか〈空間的〉spatialityな比較可能性にとらわれている一方で、例えば酒井直樹他のポストコロニアルな理論家、は"Post-European Culture and the West"というパラダイムを提出しているのであり、この場合は空間的というよりも〈時−空間的〉temporarlityな問題、歴史の記憶を刻みこんだパラダイムなのである、あるいはそうでありうるという。(レイ・チョウは明言していないが、これはデリダ、ド・マンからバーバの問題系であるだろう。)で、レイ・チョウはこう結論する。"other possibilities of supplementarity, other semiotic conjunctions mediated by different temporal dynamics, can come to the fore." (p.307) で、私もこの提言には勇気づけられるのである。そうでなくっちゃ。
ところが、これに対するジョンズ・ホプキンス大学の研究者たち(Simon During, Frances Ferguson, Jonathan Goldberg, Michael Moon)のレスポンスが、なんというか、とてもなさけないというか、驚くほど保守的でびっくりした。例によって、「精読」するのが私たちの仕事だから、他の言語文化文学まで手が回らない、レイ・チョウの結論は現状では無理、等々。おいおい、あんたたちの国では、例えばテレサ・ハッキョン・チャ『ディクテ』があるだろうよ、彼女の実践を自分の「研究」で実践する根性も気合いもないのかよ!とちょっと憤慨してしまった。そして、デリダに倣ってスピヴァックが提唱する「テレイオポイエーシス」を元にした「精読」の可能性にもまともに向き合っていない。がっかり。
なんでこんなことを書くかというと、私はICLA@香港で、日本語、北京語、広東語、朝鮮語、英語、フランス語が交錯する「場」を経験したのであるからだ。この「場」は消え去ることはないだろう。そして、ついでに書いておけば、ジョンズ・ホプキンズはどうか知らないが、今時の若いアメリカ人研究者で東アジアの言葉を読めるヤツもかなりいる。楽天的過ぎるかもしれないが、レイ・チョウやスピヴァックの夢想するような「何か」は過去に存在したし、すでに存在しているし、将来も出てくるだろうという予感がある、いわゆる「精読」をおろそかにしないで。(スピヴァックは例えば「地域研究」と共同して「できる」し「やるべきだ」と言っている)。
そういえば、レイ・チョウは香港出身だった。彼女はあの地の混沌の中から出てきた人であった。ジョンズ・ホプキンズ大学の人たちも「香港」を体験すべきではないのかなあ。