拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

レイ・チョウ『女性と中国のモダニティ』田村加代子訳、みすず書房、2003年

夏休みの自由研究、コプチェク『〈女〉なんて・・・』をひとまず読み終えたので、ずいぶん前に英語で読んだこの本を田村訳で読み直そうと思う。今、博論を出版のために書き直しているので、そのための勉強になればとも思う。
序章から。

したがって、近代中国の文化と文学に対する私の興味は、その本質においてノスタルジックなものではない。十分に欧化され、アメリカナイズされた結果、やっといまになって、「私の」四千年の歴史をもつ中国の文化的遺産を恋しく思うようになった、というわけではない。私の興味は、むしろ、その周縁性が帝国主義の歴史に埋没されている経験をしっかりと把握しようとすることにある。歴史とはまさしく、「客観的」で「中立的」なアカデミックな研究、その研究自体の可能性の条件を自制することによってかえってさかんになる研究、そのような研究のための中国の歴史と文化の「開始」を内包しているものだ。(チョウ、p.18)

基本的に同意。「「客観的」で「中立的」なアカデミックな研究、その研究自体の可能性の条件を自制することによってかえってさかんになる研究」は、とても大事であるが、これに安住するしてはならない、というか、安住しているとあまりいいことないよ、と感じる。やっぱりサイード流に「始める」ことが大事だ。

さて、つらつら読んでいて、「抑圧された者というこのカテゴリーこそが、私が私自身を位置づけている場所である。」(チョウ、p.16)という言葉には、ほんの少し違和感を感じる。1957年、バリバリ大都会の香港生まれ(この感想はたぶんに先月の香港旅行の印象が影響しているだろう)。広東語の世界に生まれ、英語で教育を受け、アメリカで博士号。勝ち組じゃねえ?ま、「抑圧された者」といいきって、それでとにかく戦うしかないんだろうな、アメリカのアカデミズムでは。もちろん、レイ・チョウが切り開いてくれた「道」というのはあるので、それには感謝なんですが。

というか、レイ・チョウ、この本を出したときは34歳。例の『ディアスポラの知識人』を出したときは37歳。いわゆるorzだな・・・。