拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

「ビンボー」と「貧困」の表現→「拓殖」「シャモ」の表現

男おいどん』が全巻届かないのでまだはっきりしたことは言えないが、この漫画が現実の貧困を元にしたネタであること、「ビンボー」の漫画であるとは言ってよいと思う。で、急に永山則夫無知の涙』と比較して読みたくなったので注文する。これはもう無茶苦茶な「貧困」の表現だろうし(未読なんだが)、たぶん笑えないはず(まだわからないが)。他方、『男おいどん』は爆笑できる。この違い、つまり表現技術の問題をちょっとマジメに考えたいと思う今日この頃。
昔、ナラトロジーなんてやっていたわけだが、語りの技法の問題を考える必要性をようやく実感しつつあるのだ。私自身、「英文学」の問題と同様に「拓殖」の問題もやりたいわけなのだが、今年提出した「英文学」の博士論文は、なんというか、ワケノワカラン資料を探し出して力任せにぶちまけたような論文なのであって、力もないのに全力投球している下手くそピッチャーのストレートみたいなものだと思う。
そうではなくて、なんというのか、レッド・ソックスのウェイクフィールド投手のナックルボールのようなテキスト(論文という形にこだわる必要もないだろう)を書きたいと思うのである。『男おいどん』のように(他にもこういう毒のあるユーモアを含んだテキストはたくさんあるだろう)、冷静に考えれば無茶苦茶悲惨なフリーターの生活を、爆笑&涙で読ませるようなテキストに学ぼう。アイヌに恩を仇で返したシャモの歴史を、事実をしっかりふまえながらも、苦笑&血の涙で読ませるようなテキストを書こう。
中村和恵さんが名著『ワタシハドコニイルノ』の前半部分で、「拓殖」の問題を彼女なりのユーモアでもうある程度書いていると言えばそれはそうなのだが、私だって何か書きたいのだ。