拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『始まりの現象』再読

始まりの現象―意図と方法 (叢書・ウニベルシタス)

始まりの現象―意図と方法 (叢書・ウニベルシタス)

表紙画像くらい出てもいいと思いつつも、法政の本だからどれも同じなんでまあいいか。
新年度の授業ではサイードの話をすることにしたのだが、いきなり
Beginnings: Intention and Method

Beginnings: Intention and Method

ヴィーコ論を学生さんに読ませるのも可哀想だと思ったので、邦訳を読み返した。
(ん?この英語版は私が線を引いたりメモを貼ったりした青表紙のコロンビア大学版とは違うな。サイード死後に何かあたらしい序文でもついて再版が出たのかな。)
1960年代のフランス現代思想ヴィーコを強引に読みつつ、博論から一歩を進めようとしているサイードは、この本には感じられないな、というのが読後感。
最初英語で読んだときには「これが人文系電波本というものか(当時は「電波」などという言葉はなかったが)と感じたものだが、ずいぶんペンのインフレを抑制している感じを受けた。
というか、これはこの山形・小林訳の特徴なのかも。
以前『英語青年』に追悼論文を書いたときに読んだ初期論文の方が荒削りでいいなとか、こういう感じ方をする私は(かつてZepのブートを買いまくったような)サイード・ヲタに一歩近づいているのかもしれない。

で、またいろいろアヤシイメモを取りまくってしまった。以前のサイード読書ノートのメモだってまだ整理していないのに。