拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

認知科学と文学文化研究

などと書くと今更かよと罵倒されるのは覚悟している。いや、小田中直樹さんブログhttp://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/を読んでいて、そうだなあ、一応かつてスタンレー・フィッシュの著作を追いかけつつ、ふと気がつくとサイードを読んでいた人間として、認知科学は気にはなるんだよなあと思ったのである。
例えば、こういう話題になるとおなじみの西田谷HPの論文などがすぐ思い出される。http://homepage2.nifty.com/nishitaya/nh0310.htm 
気になる文章。
「断片と断片の接合を関数とする研究は枠組みが同一である以上、同一対象の考察や類似分析パターンの反復・頻出によってやがて閉塞し、もう一つの方向性の研究が揺り戻しとして、日本近代文学研究でも必ず現れる。記号論とは異なるパラダイムとして今日有望視されているアプローチが認知に他ならない」
「新しい作品論やアイデンティティスタディーズもテクストに予め倫理的な制約を与えて意味を抽出する」
「文化研究は、スーパー・フラットなデータの集積を引用/参照することによってパラダイムを論じるデータベース・モデル的な発想を持つと言えよう」

《同一対象の考察や類似分析パターンの反復・頻出によってやがて閉塞し》というところは私はかなり強く共感する。私もサイードやバーバの引用をちりばめたコンラッド論を書いてヘラヘラしていたあと、まさに自分の研究が《略》ていることに気がついてしまったのだから。
ただ、私の場合は、例えばかつて読んでいたフィッシュの著作の読み直しや、すぐとなりの研究室にいたレイコフ読みの連中と対話するのではなくて、いわば「記号論系のパラダイム」はそのままに、研究の《場》を移動してみたのだった。
これだって、仮に《日本》という《場》でポストコロニアルコンラッド作品論のたたき直しなのであって、「閉塞」の可能性はある(とはいっても私個人は「閉塞」する前に逝ってしまうだろうが)。
この「閉塞」の可能性に敏感な人は、たぶん、旅をすることになる、移動をすることになる。移動し続けることになる。「閉塞」しないと信じて。
しかし、「記号論系のパラダイム」は変わらない。
・・・と書いておいて、そうなのか、とも思う。移動しているうちに、移動する人は、西田谷さんが上記論文中で書いているように、「言語論的転回の理論モデルとは別のモデルを密輸入しているのだ」ということになるのだろうか。
例えば、"Travelling Theory" (_The World, the Text, and the Critic_ 1983)には、認知論的文学研究に接続できる、研究するパラダイムへの試行を読み込めるだろうか。