拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

文化颱風ではどうだったのかな

3月まで住んでいた40年ものヴィンテージ官舎は雨の音がバリバリと聞こえたので、家の中に引きこもっていても雨の強さが分かったのだが、今住んでいる25年もの官舎だと雨の音があまり聞こえない。で、外に出てみると、かなりの豪雨。今日は大学の事務も休みだし、自宅研修にする。

私の博論と無関係ではない話題が《ここ》で盛り上がっている。これが何か具体的な形になればいいと思う。
というか、なんか形になりそうな予感。

と、同時に、台湾に行ってきて、ちょっと違う問題設定を持ち帰ってきたので、それについても知りたいという欲求もある。
台湾での学会で、「英文学者というか、英語教育者は、英文和訳を通じて「日本語」を教育してきた、ということをおっしゃる人たちがいる。これはある程度事実だと思う。では、その「日本語」とは、一体何なのか。何を基準にして学生のダメダメな訳文を「正しい」「日本語」に直してきたのか」ということを口走った。このことは、「日本語」の「正しさ」を強く意識した人たちが多かったであろう、戦後の沖縄で鋭く問題化されたのではないか、と思ったのだ。
このブログで書いた米須さんの著書では、過剰な土着主義へ距離をとるという立場から、ある程度「標準語」を評価していたり、英語教育はできるだけ日本語を介在させないダイレクト・メソッドを推進したりと、なかなか興味深い記述があった。他方、この米須さんとは違う意識を持っていた英米文学者もいらっしゃると思うのである。
どうなのだろうか。
とにかく知らないことばかりだ。