拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

日本英文学会関東支部第一回例会

午前中の教育部会は用事のため欠席、午後のシンポ「いま、語り(ナラティブ)の面白さを発掘する」から参加しました。パネリストのレジメはわりと近日中に支部HPに貼り付けることになるので、発表内容レポートは、割愛。&会全体の簡潔にして的確なレポートは例によってid:toshimさんのブログを参照してください。
私にとって大変面白かったのは、パネリスト5人へのコメンテーターの一人、言語動態論のNさんの話。この方は途上国におけるliteracyの問題を現場でやっている人で、例えばパネリストKさんの、聖者伝がラテン語から英語へ書き換えられていくプロセスの中で出てくるディテールに、近代の小説にも通底するようなナラティブの面白さを読み取るという発表に、このラテン→英語の書き換えは、途上国で起こっている宗主国の言語→現地の言語の書き換えとよく似ているというコメントがあった。ヨーロッパは数世紀でやったことを、途上国では数十年でやらねばならないわけだ。Nさんの発想としては、このような書き換え等々はいわば「インフラ整備」なわけなのだが、問題は、こうした「インフラ整備」の知識(印刷術、タイポグラフィー等々)を積み重ねることが、「ナラティブの面白さ」を「発掘」することに繋がるのかどうかということだった。
「インフラ整備」の知識を増大させることが「面白さ」を増す、とは単純には言えないと思うが「インフラ整備」の知識はあった方がいいのは禿道。
うまくまとまらないが・・・比喩的な言い方だけど、多くの人が文字を読めるようになるための「インフラ整備」は、快適なドライブを可能にする一方で、山道をてくてく歩くことの快楽を忘れがちにさせてもしまう。ただし、田舎ではしっかりした道路網がなければ生活できないということもある。快楽だけじゃ食っていけない。
というわけで、パネリストMさんが言及されていたアウエルバッハさんの例えば

世俗詩人ダンテ

世俗詩人ダンテ

は「インフラ整備」の分析として読むと面白いはずだ。ダンテさんは西欧最強の土建屋さんの一人だったわけだ。
他にもMさんのウルフさんネタとNさんの「線状性」&「(タイポグラフィーの発達などによって文字が)すっと読めること」(これは先日紹介した田口さんの『都市テクスト論序説』の議論とつながるだろう)──の議論はあー面白いと思った。
インフラ整備された「すっと読める」テキストは、「すっと」しか読めない。ウルフさんにしても、レッシングさんにしても、そうだ。*1すいているときの首都高→常磐道みたいなもんだ。これは目的地がはっきりと決まっている場合は便利なのだが、実はとても「不自由」でもある。路地をうろちょろするにはかえって不便だ。それゆえにその「不自由」な読みは、田口さんの言葉を借りれば、「現実・文明の向こう側の、遮蔽されるがゆえに横溢し出口を求めて殺到する始原のエネルギー」(49-50)に満ちている、とも言いうる。田口さんはこのエネルギーあるいは「ダイナミズム」をいわば文学的なるものとして擁護したい。「不自由」から「自由」へ。しかし、それはNさんの立場から言うと、先進国の文字インフラが整った所での話、ということになる。コメ欄でのyanaseさんの、都市論が例えば「沖縄」にぶち当たって破綻せざるを得なくなる、という指摘がここでも当てはまる、ということか。
私としてはその破綻ぶりに興味があるわけでもある。破綻は解体だが、改代でもある。endとoriginは厳密に区別できない。beginningsがあるのだ。ただ、このサイードさんの議論には途上国の言語インフラ整備等々の技術論は入っていない。これなんか、科研でいうと「萌芽」のネタにはなりそうだ。ま、穏当に「日本(ナラティブ)改造計画」「田中角栄としてのダンテ」とかなんとか。*2

研究発表をはさんで懇親会。メシ、旨かったですね・・・じゃなくて、やはりコンラッドを継続的に読んだ方がいいのだろうなあと思い直したわけでした。

*1:ジョイスさんのテキストはどうかな?

*2:このあたり、複数の方々が指摘していたヴィジュアルなものを取り込んだナラティブ論への地ならし、ということにもなるか。