拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

ベンヤミンさんの靴下

アーキペラゴ―群島としての世界へ』の第一章、今福さん&吉増さん対談の「多島海、あるいは千々石islands」から。

海に突き出す「半島の突起性が裏返る」と「川」(そしてその川が流れる大陸を暗示する)になる──このネタはもう少し進むとデリダさんの『他の岬―ヨーロッパと民主主義』におけるヨーロッパ大陸="cap"のネタに連結されていく──という反転性の具体例として、吉増さんはベンヤミンさんを持ってくる。これ、読んだかなあ、記憶にない。

靴下は、昔ながらのやり方で、一足ずつ丸めてくるまれていた。一足一足がそれぞれ、小さな袋のように見えた。その袋のなかに手をできるだけ深く沈めていく──これほど楽しいことは他になかった。そんな風にしてみるのは、〔ウール地の〕暖かさのせい〔ばかり〕ではなかった。私をこの袋の奥深くへと引き込んだのは、くるみ込まれた内部で私がいつも手のなかに握ることになる、〈中身〉(das Mitgebrachte〔もたらされたもの〕)だったのだ。私がそれをこぶしに握りしめ、柔らかいウールの塊が手中にあることを、ぎゅっと力を入れて確かめると、次いでこの遊びの第二部は、〔はっと息をのむような〕思いもよらぬ種明かしの部が始まった。つまり、ここで私はその〈中身〉を、ウールの袋から取り出しにかかったのである。それを私は次第次第に引き寄せる。とそのとき、びっくりするようなことが起こっていた。私は〈中身〉を引っぱり出したのだが、ところがこの〈中身〉の入っていた〈袋〉はもうそこにはなかったのだ。この成行きを何度繰り返して試しても、私はそれに飽きることがなかった。それは、形式と内容が、被いと被われているものが同じひとつのものであることを、私に教えてくれたのだった。(「靴下」『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(ちくま学芸文庫)より)
(吉増&今福、32-3)

これが事実かどうかは知らないが、ベンヤミンさんの釣りは第一級だ。吉増さんは釣られたわけなのだ。
そしてこれが、今福さんによって、柳田国男さんと民俗学という制度(これは一種のブルースとしてとらえられている)と、それと対照的な「イェイツの耳がすくい取った直接的な恐ろしさの世界」(38)への問題につなげられていく。

そこでベンヤミンの靴下に戻りますが、賢治の手拭い〔齋藤注:「鹿踊りのはじまり」で鹿が興味をしめす対象物〕の代わりに、ベンヤミンの裏返った靴下がそこに置いてあったらどうなのだろうか。いまのわれわれが土俗世界、土着世界へ単純なノスタルジーに依りながら還っていくことの不可能性を乗り越えて、もう一回イェイツの目、あるいは耳に近づくためには、ベンヤミンの靴下を鹿踊りの森の空閑地に投げ出してやることしかできないのではないか。入植者の汗でなく、都市中産階級の少年のやわらかい手の温もりの感触を内にとどめたウールの靴下の反転性を、野生の森や原野に突きつけてみる。そういうふうにして飛躍しないとイェイツにたどり着けないのかもしれない。だからイェイツの近さと言われたけれども、その近さに到達するために、非常に遠い距離をどう回り込み、飛躍するか。われわれもそれを探しているのではないでしょうか。(39)

ここで今福さんが「非常に遠い距離をどう回り込み、飛躍するか」と言っていることを、私なら「翻訳」や「研究」と言いかえたいような気もする。
反転性が大事なのだ。