拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

受験英語と偶然性

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)』をざっと読了。面白かったです。カントさん、ヘーゲルさんの入門としても良書ではないかと。
本題。
向坂逸郎さんの『資本論』も宇都宮芳明さんの『実践理性批判』の翻訳も、確かに読みにくい。ワカラン。つか、これらはいわゆる原書講読ゼミでの辞書代わりに使える参考書としてとても優秀なのであり、この意味で「象牙の塔」(死語)の中では一定の市場価値はあったのだろうが、鈴木さんが考えている市場では極めて価値が低いでしょう。
さて、鈴木さんは、どちらの翻訳にも共通する「極端な原文模倣の原則」(220)*1の始まりの一つは受験英語であると論じている。

受験英語にとっての天敵は、ここでも偶然性の発生なのだ。先に述べたような翻訳の本来のあり方、すなわち可能性の束としての原文から、やはり多種多様な形態を取りうる表現の束への転換という翻訳のあり方は、受験勉強にとってはあまりにも危険すぎる。受験語学にとっては、偶然性の発生源をかぎりなく縮減することこそ重要な課題なのだ。状況語や副詞の類を捨象し、文脈に関わりなく、文法構造だけを取りだす構文把握法はその第一歩だ。その上で、原文構造の模倣的再現、辞書の語彙を用いた一語一語置換による訳文が作られる。(220)

なぜか。

すでに見てきたように、官僚制度による上からの近代化そのものがすでに、市場経済が生み出す多様性や偶然性の縮減の試みだった。選抜競争の不安の中で乱数発生能力を抑圧されてきた近代エリートたちにとって、文脈に応じた臨機応変な翻訳ほど危険なものはない。(220)

翻訳者は鈴木さんの言うところの「可能性の束」を丁寧にたどることが必要なのだというのは禿道。ただ、大学兇員としては・・・。*2私もその一部である大学という組織、とくに入試に「乱数」「偶然性」を織り込むのは非常に難しい。私自身は受験英語による選抜を否定できない。*3
というわけで、私は、翻訳をやる立場の人間としては鈴木さんの主張にほぼ賛同しつつ──大学の中だけみていちゃダメよ──、兇員としては、受験英語のリサイクルをせっせと考えようということになる。受験英語テキストの中にも「偶然性」や「乱数」は潜んでいるのであって、それを思わず知らず飲み込んでいる学生たちが目の前にいる私としては、それを享受する方法を学生と一緒に考えたいな、と考える。

*1:こうした原則の「犠牲」(15)についてはしっかりした研究を読みたい。これは私なんかの仕事になるのでしょうが。

*2:ここで大学兇員の立場を出すのは議論をずらすことになりますが、それはそれとして。

*3:「犠牲」についてしっかりした研究が必要だという注1はここと関わってくる。