拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

夏休みモード突入

2ちゃんねる」ですら閲覧するのがめんどくさい廃人状態。これ、真人間になったということなのか?
7月21日。
日本英文学会関東支部例会@専修大学神田キャンパス。
・「感性」表現シンポは、どなたの発表も面白かったのだが、なにぜ時間が少なかったのが残念。
専修大の石塚さんの発表には毎度のことながら感心。神経の話にもう飽きたので、天候とロマン派の問題をやろうかな、ということで実際にやってしまうという怖ろしさ。
首都大の渡辺さんによる、様々な"Shenandoah"詩と、*1ノスタルジーに回収され得ないvoicesに直面してうろたえ、断片をつなぎ合わせることができない歴史の天使(ベンヤミン)としての語り手についての話は、妙に元気が出た。
・『愛と戦いのイギリス文化史―1900‐1950年』の編者による、本書の紹介と今後の展開についてのトーク
テキスト精読の意義の再確認&さらなる練り上げ、文化史との対話への挑戦には、「期待したい」じゃなくて、私自身がやらなきゃならんことなので、私の役回りってなんだろうなあと考える。
以下のようなことを考えた。トークの内容や今後出るというこの本の続刊とはあまり関係ないだろうが。
私の職場では「モノカキになりたい」という学生がわりといるようなのだが、この人たちの「モノカキ」イメージに大学の学者というのはあまり入ってこない、ようだ?というわけで、若い人が考えるところの「カキモノ」と紀要論文、創作と研究の対立――などというものは相当嘘くさいと思うし、すでに語られていると思うけれども、それでもこんなニセの対立はネチネチしっかり叩いておいて、それでも残る差異は明確化しておきたいなという、『文学部をめぐる病い―教養主義・ナチス・旧制高校 (ちくま文庫)』を読んでからの懸案事項をやる、ということか。そろそろ高田さんが言うところの「学者」の「二流意識」って奴を自分なりに何とかしたいな、と。*2
というか、この本筑摩の文庫になったのだな。広く読まれてしかるべき名著なので、よかったよかった。
7月22日。
あちこちに用事。
7月23日。
期日前投票、散髪を終えて、職場へ。夏休みど真ん中の大学には人が少ない。

*1:ディランさんのこれもその一つ

*2:拙著『帝国日本の英文学』第5章はある意味で高田さんの議論への私なりの回答なんだとは思うのだが、あれは中島敦さんという作家による作品をガクシャに引きつけるという作業なのであって、紀要論文を作品に結びつける作業ではない。中村和恵さんのエッセイ、ロマン派、特にコールリッジさんのエッセイも参照。