拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

福原、野崎、『ヒロシマ』

福原は福原麟太郎。野崎は野崎孝。どうなんでしょう、むしろ福原の方が「知らない」人が多いのかもしれないが、野崎についてwikiを貼っておく。

野崎 孝(のざき たかし、1917年11月8日 - 1995年5月12日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。『ライ麦畑でつかまえて』など一連のサリンジャー作品のほか、フィッツジェラルドヘミングウェイスタインベックなどの翻訳で知られる。
パン屋の長男として青森県弘前市に生まれる。1929年、旧制弘前中学校(青森県弘前高等学校の前身)に入学、常に首席を通し、語学の天才と讃えられる。4年修了で弘前高等学校(弘前大学の前身)に入学。1937年、東京帝国大学文学部英吉利文学科に進み、中野好夫に師事。卒業後は東京の商業学校で教鞭を執る。第二次世界大戦で出征し、中国で転戦。
復員後、旧制弘前高等学校教授。1949年から1950年まで、新制弘前大学助教授。上京後、51年中央大学文学部教授、70年東京都立大学教授、定年後、帝京大学教授。
1964年、J.D.SalingerのThe Catcher In The Ryeを『ライ麦畑でつかまえて』の題名で邦訳。この作品は既に1952年、"J・D・サリンガー"著『危険な年齢』として橋本福夫による邦訳がダヴィッド社から上梓されていたが、野崎は当時の深夜放送からヒントを得て、若い世代の語法と感覚に迫った訳文で当時の読書界に反響を呼び、庄司薫のような模倣者を生んで、2003年に村上春樹が新訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を野崎訳と同じく白水社から出すまで、約40年間にわたって定訳の位置を占め続けた。主人公ホールデン・コールフィールド少年が一方的に語る言葉つきは50年代のアメリカのティーンエイジャーの口調を的確に捕らえたものと激賞されたが、その和訳は至難のわざだった、と訳者自身が述懐している。

ハーシー『ヒロシマ』大学英語教科書採用について議論になったとき(1951年)、福原と対照的な存在として報道された野崎はちょうど中央大学の教授(34歳)になったばかりだったのか・・・。このネタは『原爆文学研究』第11号(2012年)で課題の一つとしてピックアップしたのだが、やっぱりやらなきゃいかんということになりました。