拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

アート対ジャーナリズムーースペンダー「現代詩の諸問題」覚え書き

3月の出張連チャンも今日で終わり。広島空港には2時くらいにつけばいいから、覚え書きをちょろっと書いて、桜でも観に行きます。
当初は清水春雄の1948年の卒論を見てこようと思ったのだが、その前に中央図書館の2階にある「フェニックス文庫」に昔の紀要がぞろぞろ並んでいるのを知り、広大英文科が出していた『英語英文学研究』(1955〜)を読んでいた。この前にあった『English』(1948~1950)の分析もまだなのにとは思ったが、これも何かの縁でしょう。
いろいろ面白い記事もあり(D.J.Enlightによるアルメニア(人虐殺)問題小説紹介ーーたぶん広島への原爆投下を意識したものだろうーー、小川二郎の「神々のたそがれ」ーー退官記念講演の文字おこし、オッペンハイマー批判から始まる詩論などなど)、いずれ紹介と分析はしたいと思う。
一番気になったのは、『英語英文学研究』第5巻第2号(1958)に掲載の、Stephen Spender, "Problems of Modern Poetry"。英語講演を文字おこししたものだという。これ、『英語青年』などで紹介があっただろうか。あとで調べなくては。

以下、広大からバスセンターまでの車内で読んだ記憶をもとにした、超大雑把なあらすじ。

"It is impossible to speak in Hiroshima about modern poetry without saying something about the atomic bomb falling on Hiroshima."ーーある日本人の詩人か編集者がロンドンに会いにきて、広島について書かれた詩は700くらいあるという。いやそれらは「2年か3年前に原爆の被害を受けた漁師についての詩かもしれない・・・どれも読んでないが、それらの詩は本日の午後語るべきものであるのか、よくてa kind of occasional poetryなのか、多いに考えたい。みなさん、あとで教えて下さい」。・・・20世紀のthe Westでは、要は過去の遺産と現在の問題をつなぐのが大事なのであり、それはつまり"see tradition in revolutionary terms"することである。「ホメロスが今生きていたら何をやったか、シェイクスピアなら何をやったか」と考えることでもある。具体例として、ジョイスユリシーズ』とエリオット『荒地』は日本で有名なようですから、その話をしましょう。・・・破壊と文明の終わりについて語るのではなく、再生と創造について語る詩。それが大事。

日本人の聴衆のことを考えた、非常に聞きやすであろうと思われる英語で書かれた、それだけ大雑把な(例:not [only]~but [also]構文の多用が目立つ)講演だと思います。

気になったのは、「ジャーナリズムではなくアートだ」("a kind of occational poetry"は前者、『ユリシーズ』や『荒地』は後者という位置づけ)という表現で、この人はそう言うだろうとなんとなく思うのだが(スペンダーはあまり読んでいないのであくまで印象です)、これを掲載した『英語英文学研究』(広島英文学会の学会誌で、学会員から聴衆したお金で作っていた雑誌であり、紀要ではない)も、編集後記などで、本誌は「研究」を建前とし、「ジャーナリズム」ーー具体的には何を、誰のことを言っているのか判然としないがーーではないことを目指す云々と繰り返していること。
素朴な疑問としては、スペンダーも広大英文科の人も、なんで「アート」や「研究」を「ジャーナリズム」に対峙させて、後者をディスるのか、ということ。どちらにもそれ固有の存在意義があるのだから、その両方を見て、それこそスペンダーじゃないが、過去の遺産と現在の問題のconnectionばかりではなく、アートとジャーナリズムのconnectionを考えたほうが、人も集まるし、三人寄れば文殊智慧なのだし(もちろんゴタゴタもあるだろうが)、基本的にはいいんじゃないのかと思うが、スペンダーも『英語英文学研究』の中の人たちもそうは考えなかった、考えることができなかったというところが重要なわけで、その文脈は調べてみたい。

・・・と書いてきて、きっとこのくらいのことは、『英語青年』とか、英学史研究者が、とっくの昔に誰かが言っていそうな気もする。