[紹介[研究]トリートの「核批評」批判とレイ・チョウ
レイ・チョウの新しい翻訳『標的とされた世界』
標的とされた世界: 戦争、理論、文化をめぐる考察 (サピエンティア)
- 作者: レイチョウ,Rey Chow,本橋哲也
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2014/11/17
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (2件) を見る
トリート『グラウンド・ゼロを書く』(原著1995年、邦訳2010年)の第10章の小田実『Hirohima』論、導入が批評誌Diacritics 1984年(秋だったか)のNuclear Criticism特集への言及で、特にデリダの"No Apocalypse, Not Now"(当然コッポラのApocalypse Nowが念頭にある)が取り上げられており、これは冷戦期の米ソ超大国による「核戦争」という"balance of terror"による支配の修辞、つまり"signifiying structures"がいかに"provisional and reversible"であるかを説くものだが(トリートの言葉)、トリートによればこのデリダの議論は
What is worrisome is that whatever Derrida's intentions, it is entirely in keeping with the history of Western, specifically America, intellectuals since 1945 to repress the consequences of Hiroshima and Nagasaki and to speak of "nuclear war" only as something that has not happened.(Treat, 357)
ということになる。米軍が広島と長崎に原子爆弾を投下したアジア・太平洋戦争は「核戦争」としてすでに起こってしまっていることはどうなのだ、ということになるか。あと、日本人を一人くらいは特集に招いてよかったんじゃないかとも。
この議論を昨日(あらためて)読んだものだから、レイ・チョウの新著があらためて気になっている次第。デリダの論文やアメリカでの「核批評」、トリートの議論などは言及されているのだろうか。インデックスを見る限りではDiacriticsの特集やトリートへの言及はないようだが。>しかし早く読め、オレ。