拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『ミメーシス』上下巻(邦訳)読了!

ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫)

ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫)

ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈下〉 (ちくま学芸文庫)

ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈下〉 (ちくま学芸文庫)

つくばに来てから、院生と読むのは多分3度目。ただ、一度も英訳もドイツ語も使えなかったのが残念です。
今日は19章のゴンクール兄弟の自然主義的「第四階級」表象の重要性を評価しつつ、それが「第四階級」の審美化であり、エキゾチズムであったことの限界を指摘した上で、アウエルバッハが好きなのだろうゾラ、特に『ジェルミナール』(炭鉱文学!)の「第四階級」表象の「真面目さ、厳粛さ」を確認した上で(ほとんどアウエルバッハが考えるところの「リアリズム」の完成形がゾラに即して語られている)、20章のウルフTo the Lighthouse (1927)論を読む。
この有名なチャプターについて詳述は避けるが、アウエルバッハが、ナチス台頭を強烈に意識した文章で、ラムジー夫人を媒介としたとりとめのない印象、生の断片に、生の真の深みと、時間の複数性と、複数の視点や声のを読み取り、さらにはそこから集合的かつ多様な主体の表象を読み取ることが議論されている。ウルフのこの作品(1927年)は、その後に出てくるナチズムへの抵抗として(抵抗という言葉は出てこなかったが)提示されている。
もう70年以上前の批評だけれど、これを隅々まで読まないで、そして議論されている作品もできる限り読まないで、(弟子だった)ジェイムソンや(フォロワーだった)サイードを読んでも、早晩行き詰まるだろうという確信が私にはある。
ドイツ文学への厳しい批判は、これは如何なものかとも、あらためて思いましたけれど。
院生2名はつらかっただろうなと思います。アウエルバッハが議論した作品、日本語訳でもいいから読むことを要求しましたから。でも、最後までついて来てくれて(ヨレヨレだったかな?)、おつかさまでした。私としても、筑波大学にいる以上、これくらいの批評を読むという授業を止めるわけにはいかないのです。