拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

米須興文『文学作品の誕生』

昨日書いた文章中、①下劣なひがみ根性丸出しの文章があり、これは北海道における観光という重要な問題に触れているとは思うけれども、具体的な事例ではなくて「観光客」という一般化をやってしまった。削除します。②「どうして多くの人は〔サイードを読んでも〕平静を装っているんだろう」と書いたが、これは典型的な決めつけ、論証を欠いた暴言でした。申し訳ありません。
ただ、②については、ちょっとしたきっかけもあった。『英語青年』1999年1月号で、琉球大学でイエイツやポスト構造主義理論を研究していらっしゃる米須興文さんの『文学作品の誕生ーーその文化的プロセスとしての意味』(沖縄タイムス社、1998)という本の書評(風呂本武敏)である。

風呂本さん曰く、米須さんは「沖縄とアイルランドのあまりにも似通った歴史体験のゆえに自らの「親近性」について「禁欲的」であらねばならないと決意する」とのこと(48-49)。ただし、「「文化の心」を国民性の変容という形でイギリス文学とアイルランド文学に探る途中で沖縄に触れたところは傾聴に値する」らしい(49)。
なぜ沖縄とアイルランドの「親近性」について語ることに「禁欲的」であらねばならないのか、その一方で(あたかも矛盾するかのように)なぜ「沖縄」に触れてしまうのか。これをambivalenceとか言ってしまえば簡単だが・・・例えば、沖縄問題に介入しようとする時、沖縄とアイルランドを重ねて、つまりは本土とイングランドを重ねて悲憤慷慨すればそれで済むほど事は単純ではない。その悲憤慷慨は敵対者に利することもある。こういう問題が米須さんに「禁欲」を強いているのだろうか。
なにはともあれ「文学作品の誕生」なるタイトルの本が「沖縄タイムス社」から出版されているとは、吃驚。これをある種のメッセージと取るのは穿ちすぎだろうか。(注記:うがちすぎでした。北海道新聞社が北大教授の本を出す位のもの。今は琉大をおやめになって、沖縄国際大学教授です。紹介記事は→ http://www.ryukyushimpo.co.jp/special/jinkoku/j980715.htm 27/03/99)

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注記(2006年3月12日)

米須さんの「沖縄文学」への微妙な立ち位置が理解できる本。