拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

続・『東京人類学雑誌』

マジで僕はボケているのかもしれない。
昨日『東京人類学雑誌』については「私は筑波にいる時にすでにこの雑誌にはだいたい目を通していて」云々と言っていたが、前言撤回する。岡倉の方言調査方法論文が掲載された号のわずか二号あとの『人類学雑誌』に「東洋言語学研究の必要」(1893, 93:9, pp.88-95)があるではないか!無論コピーして、これから熟読する。さらに、「朝鮮の墳墓(図入)」(1895, 106:10, p.134)なる短い記事も!ホント、岡倉は朝鮮で何をやっていたのだろうか・・・。しかし、そう言う僕は筑波で何をやっていたのか・・・。この雑誌、明治19年から明治33年までは目を通したはずなのに・・・。もしかすると、筑波大学の中央図書館にあった『人類学雑誌』は、1981年に第一書房が出版した復刻版ではなく、ほとんどオリジナルに近いもので(筑波には東京高師以来の古い本がどっさりあるのだ)、欠号があったのかもしれない。実際、今回畜大の紀要に書いた論文の原型になった口頭発表の原稿を書くとき、岡倉の「東洋言語学」論文を探すためにこの雑誌を必死に読んでいたのだから、カンタンに見落としたはずはないのだ。

ついでに一言。1895年頃から田代安定(↓でちょっと触れた;この人についてはすでに研究があるそうだ)の台湾紀行文に続いて、台湾調査のパイオニアの一人と言って良い伊能嘉矩の「台湾通信」がおよそ20回連載されている。伊能については拙論「日本の闇の奥」の注を書くときに少し調べたことがある。〈アフリカ=暗黒大陸〉というスタンレー的なレトリックを応用して〈台湾=闇の奥〉と言いはじめたのは、たぶん伊能あたりの人類学者だったのだろうと予想したが、これである程度実証できる可能性がでてきた。