拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

柳瀬論文を読む

柳瀬善治「異文化間の「架橋」と「日本」の浮上――保田與重郎における西欧の〈アウフヘーベン〉」(『日本近代文学』、Vol.56、1997.5、pp.149-163)を読む。私にとって、本当に貴重な論文である。中島敦『光と風と夢』が掲載された『文学界』1942年5月号における「文学界」同人たちの“虎(ヴァレリー)の威を借る狐”ぶりは、保田與重郎によってきちんと(?)レールを敷かれていたのだということがわかったからである。
柳瀬さんは論文の冒頭で「保田の依拠した「ヨーロッパ的教養」は、実はそれ自体ヨーロッパの言説の自己批判の部分であり、それを逆利用することで初めて彼の〈日本〉が生成したのではなかっただろうか」(p.149)と問題提起し、「保田はオリエンタリズム(西欧のアジアへの憧憬と差別の入り交じった意識)とオクシデンタリズム(アジアの西欧コンプレックスと克服の意志)の二つを突き合わせてそれらを利用したのだといえる」と論じ(p.157)、これを「保田の「世界史的自覚」と「国民文学」」と結論する(p.161)。(これは、柳瀬さんも言及している、姜尚中オリエンタリズムの彼方に』(岩波書店、1996年)を読めばわかりやすい議論だ。)
無論、この「世界史的自覚」と「国民文学」は完璧なのかといえばそうではない。柳瀬さんは保田の文章において「抹消されかけた「西欧の表現」の痕跡」を「木曾冠者」といった文章に見出し、「任意の過去への現代からの理想の投影の生み出した残滓であり、循環した「投射史学の論法」の捩れを示す痕跡として残り続けているのである」(pp.160-161)と論じている。では、保田的「投射史学の論法」を保田以上に露骨に実践していた『文学界』1942年5月号に掲載された、スティーブンスンの反植民地主義的文章の翻訳・翻案である中島の小説は、「「投射史学の論法」の捩れを示す痕跡」であったのか。あるいはそれ以上のパフォーマンスをし得ていたのか。それとも・・・。