拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

インタビュー:柄谷行人「資本・国家・宗教・ネーション」(聞き手:萱野稔人)、『現代思想』2004年8月号

現代思想』特集「いまなぜ国家か」の柄谷インタビューを読む。格別の驚きはないのだが、一つ興味深い点が。途中に、圧倒的な暴力に対抗する一つの手としてガンジーの非−暴力の話が出てきて、これはマスコミを使って暴力的な相手に圧倒される様子を宣伝する等の手段を使うことで有効性を持ち得る、例えばアラブ諸国は全面的に軍備を放棄すればよいのでは等々の議論がある。すると、聞き手の萱野が次のように絡む。「−−柄谷さんは『ネーションと美学』の中でカントとフロイトを論じつつ、攻撃欲動がいかに実際の暴力に向かわずに、ある意味で昇華されるかという議論を展開されていますが、それもまた非暴力の実践にかかわるものとして提起されているのでしょうか。」(42−3)これに対して柄谷は「そうですね。国家がいわば超自我をもつようにすることですね。主権を制限するのはそういう超自我です。」と答え、そのあと、日本国憲法第9条やベトナム戦争の経験をこうした「超自我」として捉えている。(43)
お、と思ったのは、萱野が紹介するところの「昇華」の話で、何故かというと、今ジョアン・コプチェク『〈女〉なんていないと想像してごらん−−倫理と昇華』(河出書房新社)を読んでいるからなのである。で、コプチェクははっきりと「超自我」に寄る倫理を否定している。そうか、柄谷を念頭に置いて、コプチェクを読めばいいのか、と思ったりしている。
柄谷の話に戻ると、彼は普遍宗教の話をしていて、圧倒的な暴力あるいはグローバリゼーションへの対抗手段としては宗教をまず思考しなければならないと言っていて、これは柄谷語に慣れた者には目新しくはないのだが、ここで考えるべきは文学の問題で、例えばイーグルトンは宗教の衰退→文学の誕生というシナリオを画いている訳だが、このシナリオは宗教あるいは原理主義が今持ち得ている喚起力を持ち得ないだろうということを確認する必要がある。それはとてもありがたいことで、文学が原理主義のような力を持ったら恐い。じゃあ、文学なんかやめて宗教を勉強しようか、ということになるのか。そうとも言えるけれど、文学を先ほどの昇華→超自我のようなものとして捉えることはできないのかなと思ったりする。コプチェクを読みながら、そして柄谷を読みながら、私自身は「英文学」(というか、英語と日本語の間を往還しながらテキスト=コンテキストを読むこと)というものがある種の昇華→超自我のようなものだと自分は漠然と考えていたなあと思うのである。
わけがわからなくなってきたので、またあとで。