拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

こわいシェイクスピア、読了

サブタイトルどおり、「性」と「植民地」の問題を、シェイクスピア作品を通じて学生に考えさせるという本橋さんの授業あるいは公開講座の様子が目に浮かぶような本だった。そしてその意図は成功していると思う。
この本を読了してふと思うのは、この本が「解釈学的」な厳密さを要求するシェイクスピア研究への批判だとしても、批判するだけのシェイクスピア産業というものが(専門家の研究としても芝居好きの一般人向けの上演としても)存在しており、それを前提として(批判的)議論ができる、ということだ。たたくべき、そしてたたくだけの価値がある権威があるのだ。
さて、私は19〜20世紀イギリス小説の専門ということになっているのだが、そもそもシェイクスピア産業のような「権威」があるのだろうかと考えてしまう。なんというか、私などはひたすら自作自演をやっているという気がしてしまうのだ・・・と同時に、私が問題にすべき「英文学」的なるものは、シェイクスピア産業のような明確な権威としてではなく、広く薄くしかし深く日本の近代の中に埋め込まれているということなのだろうとも思う。
で、こうなってくると、問題は「英文学」というよりむしろ広義での「翻訳」の問題となり、それは例えば酒井直樹さんの『過去の声』(私も翻訳に参加してます)のような著作ですでにじっくり考察されている、という気もする。
とにかく、私のやっていることは、授業ではやりにくいな。