拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

ノーマ・フィールド「戦時下の大学教室で原爆を考える」、『前夜』創刊号(影書房、2004年秋)

フィールドさんが授業でファルージャでのアメリカ民間人の焼死体映像を授業で扱うと、

「どんなイメージを見てもショックを受けることはない」、と一人が発言した。みんな頷く。テレビや映画、インターネットであまりにもすごいものを見てきたから、と問いただすと、そうだと言う。(p.12)

ところが、

授業のはじめ、やはり共通のベースとして、私たちは一人の少年の写真に見入っていた。それは「焼き場にて、長崎」と題されていて、10歳くらいの少年が死んだ弟──可愛い赤ん坊である──をおぶって「直立不動」の姿勢で写っている写真である。学生たちは言葉の重要性をはっきり意識するきっかけとなった。一人がこの写真だけをインターネットで友人に送ると、別に何も感じないと言ってくる。その直後、写真家の言葉を送信すると反応が一変したそうだ。(pp.12-13)

フィールドさんはこう語る。

映像で育ったと言われるこの世代にとって、言語は逆に新鮮なのかもしれない。いや、映像が一人歩きしているかのように時代を語ることがそもそも間違っていたのであろう。(p.13)

おとつい、通院途中のバスの中で、香田さんの殺害映像をネットで見たとしゃべっている高校生連中(ただし実際に見たらしい少年は「メシが食えなかった」とは言っていた)に出会ったので、以上の文章が妙に心に残ったのである。