拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

佐藤良明『ラバーソウルの弾みかた──ビートルズから《時》のサイエンスへ』(岩波書店、1989年)

今日の授業はテストだったので、試験監督中に残りの部分を読んだ。
私は筑波で宮本陽一郎さんの授業に出て、緻密なレジメと博覧強記に刺激を受け、博論執筆中に圧巻としかいいようのない『モダンの黄昏』(研究社、2002年)を読んで心底鬱になったわけなのだが、鬱になるくらい影響を受けて、それでよかったと思っている。宮本さんの仕事のごくごく小規模な縮小再生産であれ、私の書いたものを「研究」→「博論」にすることができたのは、院生時代に宮本さんの緻密なレジメを読んだおかげだ。
だから、もし20代に佐藤さんの本、というかインプロヴィザーション、というかジャム・セッションを読み、ベースを捨ててギターをかき鳴らし、喜悦に浸っていたら、鬱にはならなかったかもしれないが、博論なんか書けなかったと思う。いや、博論を書いたのがよかったかわるかったのかはわからんのだが。
ただ一言だけいいたい。
どうしてロックの人は、ギタリストやボーカリストのことばかり論じるのか。どうしてジョン・レノンばかり論じるのか。ポール・マッカートニーをほったらかしにするのか。どうしてジャコ・パストリアスを論じないのか。どうしてラリー・ジョンソンのスラップ奏法を論じないのか。(スティービー・ワンダーの)シンセ・ベースをどうして論じないのか。細野晴臣のベースはどうしてくれるのだ。
レノンやハリソンのペラペラすかすかギターではロックにならんだろうが。マッカートニー&スターのリズムセクションがなければダメだろうが。
ギターが「弾む」わけではない。あれは「鳴る」のだ。「弾む」のはリズムセクションなのだ。と、こう言っておかないと、ヘタレなりに20年間ベースを弾いてきた私は、どうにもこうにも腹の虫がおさまらない。
いや、佐藤さんが書かなかった「ロック重低音論」はもうあるのだろう。無知な私が知らないだけなのだろう。