拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

徳富健次郎著、中野好夫編『謀叛論』(岩波文庫、1976年)

さすがに存在は知っていたが、正直、今回初めて読んだ。
幸徳他12名は「志士」であるから天皇の恩赦をこそ政府は考えるべきだったのに、そうしなかった。そうしなかったから、余計に無政府主義者が増えるだろう。現に私がここでこうしゃべっている・・・と議論はつづく。
編者の中野も「(蘆花の天皇崇拝については)戦後の若い読者には食いたらぬであろう」とコメントして、しかしこれは大日本帝国憲法下の明治日本においては致し方なしであった、と補足している。
つっこみどころは・・・
「痴愚強弱一切の差別を忘れて、晴天白日の下に抱擁握手ベンブする刹那は来ぬであろうか。(中略)この詩的高潮、このエクスタシーの刹那に達するを得ば、長い長い旅の辛苦も償われて余りあるではないか」(12頁)。
それはいい。
で、この「詩的高潮」「エクスタシー」=「愉快」は「必ずや我らが汗もて血もて涙をもて贖わねばならぬ」(13頁)。
それもいい。だが、

ゾラの小説にある、無政府主義者が鉱山のシャフトの排水樋を夜窃かに鋸でゴシゴシ切っておく、水がドンドン坑内に溢れ入って、立坑といわず横坑といわず知らぬ間に水が廻って、廻り切ったと思うと、俄然鉱山の敷地が陥落をはじめて、建物も人も恐ろしい勢いを以て瞬く間に総崩れに落ち込んでしまった、ということが書いてある。旧組織が崩れだしたら案外速にばたばたいってしまうものだ。地下に水が廻る時日が長い。人知れず働く犠牲の数が入る。犠牲、実に多くの犠牲を要する。日露の握手を来すために幾万の血が流れたか。彼らは犠牲である。しかしながら犠牲の種類も一ではない。自ら進んで自己を進歩の裁断に提供する犠牲もある。(13頁)

「詩的高潮」対「ゾラの小説」(散文)も突っ込みたいところだけど、それよりも内容的にこれで「無政府主義者」=「謀叛者」の擁護になると蘆花は考えたんだろうか?炭坑関係者が親族にいる(いた)私は、このたとえ話はちとキツイなー。
蘆花は立派な「鬼畜」であると思う。

追記(12月16日)
この「謀叛論」は中野の「解説」によれば「明治四四年二月一日、旧一高大教養で行った準公開講演である」(123頁)とのことだから、主に一高関係者相手ということで、ゾラを引用しても平気だったのかも。それにしても、旧帝大のエリート意識が露骨に出ている文章ではある。