拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書、2004年)

民衆史の立場から中世古書を「鈍牛」のように読んでいた網野さんが、68年のエンプラ入港阻止闘争での学生の投石を見て「飛礫」の伝統に思い至り・・・というところはホントかなと思いつつ、面白い。
中沢さんが網野さんの「愚直さ」、その「愚直」を突き抜けてゆく、というか「跳躍する」ところを評価しているのは興味深かった。中沢さんも沖縄からチベットへ飛んだのか。知らなかった。
伝統的ディシプリンの徹底化(民衆史が伝統的だったかどうかはちょとアレだが、「マルクス主義」と変換しておこう)から新たな知の創造へ、というのは啓蒙的でなかなかよい。学生に読ませるかな。
ついでに書くと、昨日ざっと読んだ梨木さんも(マルクス主義ではなくて)「信仰」において網野さん的な愚直さがあったのかもしれない、と感じた。ただ梨木さんは「跳躍」はしていない、そうするのをためらっている、そうするのが自分の仕事だと言いたいような気がするな。