拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

白川研究室訪問、文化颱風@立命館

hspstcl2005-04-15

引越を手伝ってくれた母親を連れて、第三学群F棟4階の白川名誉教授研究室を見学してきました。フツーの国立大の研究室でした。というか、しょぼかったな。一見すると立派そうに見えた椅子はたぶん人工皮革で、しかも白川先生の座り方の癖なのだろうか、お尻が当たる面の右側の皮には穴が開いていて、中のスポンジが見えていたのだった。(白川先生、ごめんなさい。)
入出者の名簿があったので眺めてみた。ノーベル賞受賞の後1年くらいは修学旅行(の理系組だろうな)の学生なんかもかなり訪問していたようだ。
授業がない今日は完全に観光客気分。
・・・なのだったが、入室者の名簿にたぶん中学生くらいなのだろう、「斉藤正」の名前を発見した。
これには参った。
私の亡父は「齋藤正」で、物理は大得意だったらしい−−その才能はどうやら弟に引き継がれたようで、私は小学校2年生のとき九九を暗記するのがクラスで2番目に遅かったくらい数字はダメダメだった。
その親父は、生前、よくこんなことを言っていた。

俺は炭坑夫頭の息子で、北炭の社員ではなくその下請けで、しかも11人兄弟という貧乏世帯だったから大学は行けなかった。北大に行こうとしてつらい新聞配達もやったし、学費がかからない気象大学校に行きたいと準備もした。高校の先生も、ホラ半分かもしれないが、アメリカのMITに行っても大丈夫だと言ってくれた。でも家庭の事情で拓銀に入行した、というか知らないうちに拓銀入行が決められていた。近所では「抗夫頭の息子が拓銀に入った」と評判になったが、俺は号泣した。大学で物理でも工学でもいいからバリバリ勉強したかった。あるいは山岳部出身だったから、富士山測候所で働きたかった。とにかく学問をしたかった。(息子による記憶による再構成)

母と二人で白川英樹さんのビデオを見ていたのだが、どうしてもあの研究室にはもう一人いたような気がしてしまったわけで、さすがに胸にこみ上げるものがあった。
しかし、そのあと近くの中華料理屋で昼飯を食べた後は、やっぱりあまり親父を感傷的に語るだけでは、物理ではなく文学・文化研究を選んだ私としてはresponsibility(というより要するにいろいろな意味でinterestingなんでやっているわけなんだが)を果たしたことにはならないんであって、親父はシャモであり拓殖の人であり(若い頃は朝鮮人やヤクザの師弟と知己があったにもかかわらず)、高校生の私の目の前で朝鮮人が嫌いだと断言して、私と大げんかしたこと等々の背景というかhistoriesをしっかり調べて書かなきゃならないと思い直す−−こういう思いこみと言ってもいいresponsibilityの背負い方に違和感を感じる方もいるだろうことは承知しているわけだが、私はこういう人間なのである。親父や母親、祖父や祖母等々のhistoriesから「シャモ」のhistoriesを書かなきゃ、どうにも気持ちがおさまらない。
これは拓殖の歴史=物語をやっている私の業みたいもんだろうし、そう自分で思っているし、実際図書館にこもってたとえば(十勝管内に分散していたアイヌのいわば居留地として作ったようである)フシココタンの跡にシャモによって開拓された土地である西帯広の郷土史家が書いた『西帯広史』などという郷土史なんかを読みつつ、同時にサイードを精読しているわけなんであって、だからこそ筑波の大学院で、「イギリス文学」ではなくて「総合文学」でとってもらったわけだろう。

ところで、7月1日〜3日、京都の立命館大学でCultural Typhoon第3回が開催されるようだ。個人発表もできるようなので、若い人はプロポを出してみるのもいいかも。http://www.perpetuum.co.jp/typhoon/ja/entry.html
で、私も拓殖ネタでそろそろ話したいなという気持ちもあるのだが、いかんせんちょうどこの時期台湾で学会があって、その前後には国立台湾大学図書館の台北帝大時代の英米文学書調査の準備調査もやりたいので、今回は京都は無理かなと思っている。残念。

昼間に結構歩いてかなり疲労し、午後6時から10時まで寝てしまったおかげで、いつも通り11時に常用薬ベンザリンを服用してもさっぱり寝付かれないので、夜中の1時過ぎにこんなカキコをしている。
今こうやってカキコしながらもあくびはゴワーっとでるんだけどなあ。
明日、じゃないや、今日が土曜日でよかった。