拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

英語本日の解体=改体

台湾での学会で苦し紛れに「英文和訳こそが(正しい)日本語の教育であったのだ、という言い方がある」云々というコメントをして、ほおそうか、という反応が結構あった。
で、昨日の某再編問題等々に関する会議会議で英語他の外国語をどうするのかという話になって、やっぱり中高校での「英語本日」の解体=改体が大事ではないかと思ったのであった。というか、このことが大事なのは誰もがわかっているので、それをどう実践して、学生、というよりは説明会で受験生にプレゼンするか、という話。で、私自身はあまりうまくできませんと思いましたことよ。

こと英語運用能力の向上という話になると、私自身はテキストを英和&英英辞書を引きまくってみっちり読み込み、どかどか暗記し、どんどんディスカッション&ディベート&カラオケするという肉体派英語教育しか知らないので、若い学生の素朴な「外国人との会話への憧れ」というやつにどう対処して良いのかよくわからないのだった。
アカデミック・ディベートの全国大会に北海道代表チームの一員として出場するという明確なロードマップがあった大学生の私は、ある意味とても楽だったのだなあとつくづく感じる。こういう明確な目標があれば、文字通りゲロを吐くまで英語をやっても全然苦にならないのである。
おかげでディケンズや『ミメーシス』英訳を曲がりなりにも読めるようになったし。

・・・ということを書きつつ、台湾学会で日本語教育の問題、特に歴史&政治の問題と「運用と実践」の問題にどうつきあっていくのかということを考え、いやほんとどうしたものかと考え込んでしまうのだった。
学生も教員も好きこのんで「自発的」かつ「暴力的」に英語やるんなら全く問題ないんじゃないの?と簡単に言えないんじゃないか、と。いろいろな局面で戦うためにはとにかく英語であれ日本語であれ身に付けなきゃならないんだから、というのはもちろん正論なんだけど、それが自分の中の何か(日本人としてのアイデンティティとか、そんなものではない!)を犠牲にしているのかもしれないという自覚がないと、精神のしなやかさといったらいいのかな、そういうものを失ってしまうなという直感を得たのだった。