拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

デムパな文

昨日の院生研究会ではMaterial Eventsのイントロ、A "Materiality witout Matter"を読み始めたのだが、ひさびさにデムパな文章を読んである種の懐かしさを覚えたなあ。
会議がおわったので晒しあげ。

Why de Man today? What if any claim might a project so linked to a "theory" that seems out of fashion -- that is, rightly or not, to literary preoccupations and close reading -- have in an era, say, moving beyond "cultural studies" to a reworking of technology, of technicity, of concertaed political imaginaries and revived notions of materiality? (vii)

要するに、What if a project ... might have any claim in an era ...ということなんだろうし、さらに解説してしまえば、「脱構築」(とは書いていないけど)がいわゆる「カルスタ」を通過してさらなるホニャララな時代にいたるとき、まだなにがしかの力を持ちうるんでしょうかねえ、ということなんだろうが、これが一読でわからない院生諸氏続出。っていうか、私も一瞬あれれとおもったわけだし。しかし、なんかなじみのスタイルなんだよな。
そしてそのデムパな文章が結構わかっちゃう自分のデムパさ加減にも苦笑。考えてみれば、90年代の最初の5年間、このイントロを書いた3人のうちTom CohenとBarbara Cohenはともかく、Hillis Millerにはずいぶんつきあったわけなのだった。そりゃわかるわな
で、圧倒的な名前が並ぶ目次を見ていると、T. J. Clark, "Phenomenality and Materiality in Cezanne" (pp.93-113)という論文のタイトルが目に入ったのだが、これなどメルロ=ポンティセザンヌ論をやっている学生に紹介しようかとも一瞬考えたが、しかしさすがにこれは院生レヴェルだろと思いとどまる。