拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

院授業録画中継(2)

昨日の院の授業は『植民地幻想』第二章「ポカホンタスと食人種」。
基本的にはピーター・ヒュームさんの『征服の修辞学』第四章「ジョン・スミスとポカホンタス」が下敷きになっているわけだが、正木さんの議論の仕方がヒュームさんの問題点をずばりと指摘するというよりは、どちらかというとヒュームさんの論旨に寄り添いつつその論旨の危ういところをあぶり出してゆくというやり方で、これがどうも「すっきりしない」という読後感になる(複数の感想)。ヒュームさんを読んでいないと、細かいところの議論がきっちりわからないという。
ところで、ヒュームさんは「アメリカ建国の歴史の「はじめ」はメイフラワー号ということですっきりさせたい、ヴァージニア植民地を忘れたわけではないが、すっきりさせたい」と明言する歴史家ペリー・ミラーさん(Errand into the Wilderness, 1984)の引用をひっぱりだしつつ、この「すっきりした「はじめ」」への批判を、モースさんの互酬概念を利用しつつアルゴンキン文化に異文化横断の可能性を見る、ヨーロッパ文化はダメポというように、かなり明快に展開しているわけで、「すっきり」した歴史への批判を「すっきり」やっちゃっているのではないかヒュームさん、実際スミスさんからの引用も「すっきり」批判のためにちょっと恣意的ではないか?という意識もあって、正木さんはヒュームさんに憑依し反復しそこからずれるという「すっきり」しない書き方をしているのかもしれない。とすると正木さんの「すっきり」しなさは筋が通っているんじゃないか、という発言も。うんうん、そう読んでもいいかもしれない。
あと、これは学術論文として読むとすっきりしないけれど、謎解きをあとにのばす推理小説的に読めばいいんじゃないかという発言もあり、うんうんこれはそうだろうねと納得。
というわけで、レトリックを意識するという方針で正木さんの本を読むという作業、まあ私も含めて参加者全員あることないこといいまくりなのだが、日本人英文学者の著作にここまでいいまくりで精読するという経験は新鮮なようだ。