拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

欝な夜

夜、柄谷行人さんの日本精神分析を読む。
阿刀田高さんの怪談 (幻冬舎文庫)を論じる明日の講義の予習とも思っていたのだが、だんだん欝になってきた。
この本(と酒井直樹さんの著書)に自分の仕事が圧倒的に規定されてしまっていることをつくづく痛感。規定されてしまって、彼らの枠を問い直していない、つまり「分析」していない。
柄谷さんがたてた、「日本精神」と音読み訓読みという日本語のエクリチュールの問題を、いわば「英文学」と「日本語」/「英語」との対応関係の問題に読みかえてみる、というのが最初のアイディアの一つだったのではないか。
もっというと、I am Hajime Saito.=「私は齋藤一です」という等式を執拗に繰り返しとなえて、ある種のゲシュタルト崩壊に至り、記号の記号性にノックアウトされていわば「嘔吐」する。読者も一緒にゲロを吐いてもらう。→巷に売っている英文法の参考書を読んだら自動的に嘔吐するようになる、というのが私のやりたいことだったのではないか。
そりゃ確かにゲロを吐くのは汚いが、しかし酒飲みならおわかりだろうが、ゲロを吐いたらすっきりするのだ。アルコールが消え去るわけではないけれど。小難しい理論や言語をアタマにぶち込んできた私は、便所でゲロを吐いて、ちょっとはすっきりしたいよ。すっきりしたところで、私の肝臓はもう脂肪肝になっているけど。
しかし、今回の本は「ゲロはいてすっきりさわやかな本」になっていない。特に第五章は「文学部という病」からの「治癒」を志向する「分析」になっていないような気がする。ゲロを吐く以前、良い気分で酔っているのだ。このままでは脂肪肝が悪化するだけだ。
ベンザリン飲んで寝逃げしたいな・・・。