拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

院講義録画中継(6)

正木恒夫『植民地幻想』第7章、キャプテン・クック論。
とはいえ、この日のメインは、前回の第6章のデフォー論と、岩尾さん経由で宿題にしておいた荒木正純さんの論を読み合わせるという作業がメインであった。
荒木さんの論文は『ホモ・テキステュアリス―二十世紀欧米文学批評理論の系譜』に入っているが、まあフツウの人はこの本を買わないだろうから図書館で借りて当該論文を読んでもらいたいのだが、発想はシンプルにして過激。つまり、Robinson Crusoeというテキスト(本文)の冒頭におかれている〈Daniel De-Foe〉という記号をデリダ的な意味における危険な補遺としてとらえ、〈Daniel De-Foe〉の原理−−〈de-〉(分離)と〈con-〉(固着)の〈差延〉あるいは〈翻訳〉−−の実演としてRobinson Crusoeを読み切ってしまうというもの。
私、この論文が好きなのである。なにが好きといって、この〈荒木正純〉という読み手の〈Daniel De-Foe〉と〈Robinson Crusoe〉への没入and/or離脱ぶりが好きなのである。これは読むべきテキストからクールに距離をとった〈英文学研究者〉のそれではない、と同時に、クールな仕事人というか脱構築マシーンのそれでもある。この〈私〉と〈テキスト〉との没入and/or離脱(〈de-〉と〈con-〉の〈差延〉)が、「文学とは何か?」というサルトル的問題意識に裏打ちされているとなれば、「英文学の脱構築」というトンデモ博士論文を書いてしまった私(齋藤)がこの論文を好んで読んでいる理由がおわかりになるだろうと思う。
さて、院生さんの反応は「?」が多かったわけなのだが(仕方ないな、これは)、しかし例えばSさんは「これを読んだら(読んでいる私)の認識論的な危機を感じた」云々と発言。そう、この論文を読んではまったら、もう後戻りは出来ないのである。ド・マンを読んだ読者がそうであるように。
・・・というような前振りをしていて、「それでは正木さんの「倫理的」で「禁欲的」ともいえるような文体や、正木さんのテキストにおける〈私〉についてはどうなのよ?」という煽り(というか「それ誘導尋問です」とつっこまれたが)をしてみるテスト(ry