拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『「国文学」の思想』を読む

「国文学」の思想―その繁栄と終焉 (学術叢書)いただいてからずいぶんたつのだがなにせ忙しくて(これは要するに要領が悪いせい)この本を読めなかった。あと、博論の草稿を読んでいたということもある。
今、通勤のバスの中で読んでいるのだが、細かいこと一点と、大きなこと一点がどうしても気になる。
前者。これは個人の好みなのだろうが、概念を表すのであろう「 」の多用がどうしても気になる。文意がそれほど誤解されないのであれば「 」はとった方がよいと思う。正直、読みにくい。たぶん国文学論をやる人の必読基本文献になるだろうが、発行部数はそんなに多くないはずだからはやめに買っておいた方がいいとは思うのだが。少し残念である。
後者。国文学の思想、そしてその繁栄と終焉を実に克明に記述した笹沼さんの、国語学(批判)でここではおなじみの安田さんの、故サイードさんの・・・課題。国文学にとって変わる知の体系を模索するという課題。
ないものねだりは当たり前。でも、2006年に出す本なんだから、ないものねだりだ!と開き直ってもいられないのではないかとも感じる。
もう一つ。例えばこの笹沼さんも何らかの形で教育という現場に関わっていくのだろうが、でっち上げでもいいから国文学という教育メソッドを用意しておかなきゃ食いっぱぐれるのではないかと。
というわけで、土居光知さんの「個人」対「国家」という枠組みの限界を指摘した以下の部分などに興味を引かれたのだった。

網野義彦らが指摘するような近代日本にくらべて遙かに多元的なシステムをかたちづくっていた中世や近世の社会を、歴史的な視点にもとづいてありのままに評価することが不可能となってしまうのである。(102)

期待したい。
というか、人ごとじゃないだろ。もうすぐ・・・。