拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『異郷の身体』

京都のIさん、とどきました。ありがとうございました。
ただ、私はこの本をもう一冊買って、どっさり書き込みしようとおもう。
春休みの課題図書はこれで決まりである。
例えば、長畑明利「母語の外へ」では、私が昨年3月に英語で口頭発表した、『ディクテ』(のとりあえずの)冒頭部分における英語とフランス語の「対訳」の微妙だが決定的な差異を指摘している。

すでに述べたとおり、このページに並べられたフランス語と英語のテクストは、互いが互いの翻訳となるべく対応している。翻訳は一つの言語を出てもう一つの言語の中に入る経験を擬似的に可能にする。理解できる言語世界の中にいながらにして、理解できない言語世界に入ったような錯覚をもたらすのである。しかしチャは、こうした翻訳に対する過剰な期待を周到に裏切ってみせる。なぜなら、池内も指摘するように(「訳者あとがき」一八三)、このページにのフランス語テクストを翻訳するかにみえる英語テクストには、原テクストとの微妙な違いがみられるからだ。(77)

この論考がこのあとどのような議論をしていくのかは割愛するが、やはり誰もが気づくチャの仕掛けではある。
これを、私は、"Let Us Open Our Paragraphs"というタイトルの口頭発表&英語論文で、チャが「翻訳に対する過剰な期待を裏切ってみせる」のであれば、私たちが昔からなじんできたあらゆる対訳(参考書、辞書、等々)はすべて『ディクテ』のようなラディカルなテクストでありうるのだ!と吠えたわけなのだ。
この論文は、今年中にマレーシアから出版の英語本に掲載されるのだが、ああ、この本をもっとはやく読みたかった。